正法眼蔵 第二十 有時

memo:
葉縣の歸省禪師は臨濟の法孫なり、首山の嫡嗣なり。あるとき大衆にしめしていはく、
有時意到句不到(有る時は意到りて句到らず)、
有時句到意不到(有る時は句到りて意到らず)。
有時意句兩倶到(有る時は意句兩つ倶に到る)、
有時意句倶不到(有る時は意句倶到らず)。
意句ともに有時なり、到不到ともに有時なり。到時未了なりといへども不到時來なり。意は驢なり、句は馬なり。馬を句とし、驢を意とせり。到それ來にあらず、不到これ未にあらず。有時かくのごとくなり。到は到に礙せられて不到に礙せられず。不到は不到に礙せられて到に礙せられず。意は意をさへ、意をみる。句は句をさへ、句をみる。礙は礙をさへ、礙をみる。礙は礙を礙するなり、これ時なり。礙は他法に使得せらるるといへども、他法を礙する礙いまだあらざるなり。我逢人なり、人逢人なり、我逢我なり、出逢出なり。これらもし時をえざるには、恁麼ならざるなり。
又、意は現成公案の時なり、句は向上關の時なり。到は體の時なり、不到は此離此の時なり。かくのごとく辨肯すべし、有時すべし。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です