「利休のかたち」展にて

大晦日に会場にて『山上宗二記 (今日庵文庫蔵)』を拝見。論点となる「山ヲ谷西ヲ東ト茶湯ノ破法度物ヲ自由ニス、」のところの解釈が、利休は茶ノ湯を自由になしたが、名人なればこそ正道は外れないという旨。この解釈が、決して7Fのようなことではような気がする。
指月集には「茶道の本意は、ひとえに清閑をたのしぶ人に存して、墨宝、名器の中にあらず。」とある。
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茶道具には「利休好み」や「利休形」など千利休の名を冠した道具が数多くあるが、それがはたしてデザインとしてスタンダードとなっている「利休のかたち」ということなのか、、、東京・松屋銀座で「利休のかたち – 継承されるデザインと心」展2020年1月20日まで。
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それは儀礼的なものを無視したことでなく、…古人もこれを茶の湯の心得、その法式を大切にすることのみを心懸けていたが、「易ハ、其法式ヲ階子ニシテ、多少高キ所ニモ登リタキ志」があってそれに立ち向かったのである。
『茶の美学』p.83–84

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