乾山写

箱書には「乾山写」とか「仁清写」がよくあります。とにかく数多ありますが、似ても似つかないというか、完全に解釈を間違えているものがあります。時には、確かに真作で存在する絵柄というかモチーフをやりすぎてビックリというもの見受けられます。最近、琳派と江戸琳派、調べているととても興味深い作品を見つけることができます。そこに解釈が生まれるのです。
もともと、茶の湯に乾山と仁清は深い関係がありますが、いつの間にか茶の湯の有名な作家たちが写しとして使用し、道具を売るためにとなんとなく合体してしまって、同じ仲間になっています。とても問題です。どんなに有名でも乾山や仁清は茶道の家元にはなれません。いや、彼らは時のものづくりであって、家元になる気はありませんでした。日本の芸術であって、流儀の開拓者です。絵柄の山も川も、野の草花も、美を追求した手段なのです。
「うつし」と「まね」は違います。かえって「写」と箱書などでうたっていなくても、使用する茶人が、写しや好みと解釈して、特定の客のもてなしでそう思ったものを使用し、その時の道具の由緒でそのように紹介する方が正しいと思います。という理由から箱書の「写」は信じてよいのか分からないといってよい。なので、ぼくはすすんで手元におきません。

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