飯尾の和歌

とうとう書の源流。これが本当だったら、このお軸の経緯は実に興味深い。雨華庵にあったのか? その後、所持していたのは一笑庵旧蔵の証が木箱の表題紙にあるように、その茶室の主人か?:
高田太郎庵(1683–1763)で尾張名古屋の茶人。宗和流の茶を学び、表千家六代千宗左の門人として表流の茶の湯を広めた。この宗匠が焼いた茶碗「鈍太郎*」をくじで引きで当て太郎庵*と号した(おもしろい話)。今でも「太郎庵椿」が地元熱田神宮で有名。
元々、この表題紙にある「一笑庵」は古田織部作の茶室を譲り受けて高田太郎庵が自邸に構え、晩年には希少な古筆の名物切を数多く蒐集して、すぐれた審美眼の持ち主でもあった。この人の所蔵であったのであろうか?(箱は相当古いが、一笑庵の貼紙はそこまでは古くはなさそう、但しその反対側に古い外題が)
その後を辿ると、興味深いのは、徳川美術館の岡谷コレクション――岡谷家は、江戸時代から続く名古屋有数の商家。1669年、初代岡谷總助宗治が名古屋城下に創業した打刃物商「笹屋」を発祥とし、九代岡谷惣助(1851–1927)は、愛知銀行や岡谷鋼機株式会社の設立者。この代までは茶人ではないのか、、、1923年、益田鈍翁*を迎えて開かれた敬和会は、十代岡谷惣助(1887–1965)を席主に茶室「一笑庵」で行われている。この近代の数寄者たちの賞玩の一端に触れることができる点から、なぜ岡谷コレクションではなかったのか? どの代で外れたのか? 贋作か? ここまで話を作るか? 興味深い。

飯尾常房(いいのお つねふさ/1422–1485)室町時代の武将、書家。阿波の守護細川成之に仕え、将軍足利義政の右筆(ゆうひつ)を務める。仏教に通じ、和歌を尭孝(ぎょうこう)に学ぶ。また尊円流(そんえんりゅう=尊円法親王が興した書流)の書を修め、和様の書風のひとつ飯尾流を創始した。このような経緯から、雨華庵に所蔵されていたのだろうか、火災前に持ち出されて残ったのか? あるいはその前か?
[wikiより:]尊円流にはとくに傑出した能書家はいない(一休宗純が茶道用の掛物として当流を使用しているのが、僅かに目立つのみ)、しかし、別名御家流(おいえりゅう)**とも呼ばれ、武家の公式文書は多く御家流草書で書かれたため普及した。寺子屋などで学ぶ教科書でも御家流が用いられていたことから庶民に普及し、明治時代に活字文化が普及するまでは日本の標準書体であった。そのため、江戸時代以前の古文書を読むには、御家流のくずし字を学ぶことが必須となっている。

短冊の和歌よみ
「刈り残す 真菰乱れて 吹きぬめ(け)る
御津の御牧の 秋の初風 常房」かなのとても美しい書。

黒楽茶碗 銘「鈍太郎*」表千家6代覚々斎原叟宗左(1678–1730)が、享保6年(1721)に江岑宗左五十年忌に作った一碗で、益田鈍翁*は明治40年(1907)に入手した。翌年品川御殿山の本邸(碧雲台)に茶室「太郎庵*」を建て、還暦自祝の茶会を披き、この茶碗銘に因んで「鈍翁」と号するようになったいう茶碗。

句は是のみ覚てをれり。【遊芸何も不為】和歌を蓮阿に学び、御家流の書をよくして**弟子数多あり。養子心水子に家を譲り別宅し、剃髪して蘇平と改む〈「鶯邨君」が酒井抱一〉

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