明朝体

124 nakano [2001.3.24_0:56]
「途切れ」という言葉に強い印象を受けました。この「途切れ」という言葉をいろんな意味で受け止めました。一つは前にもふれているような美意識に対する意味でも感じました。僕は大学で明朝活字の研究を行ったことがあるのですが、活字版印刷、写真植字、DTPと移項していくに従って、文字そのもの美しさが流通や生産性に次第にとって変っていくような感覚を覚えました。当時の明朝体の源流でもある築地体を見てみると、やはりデジタルフォントにはない美しさが潜んでいて、活字ならではの、種字彫刻師の手による強いこだわりが潜んでいます。書体一つの歴史を眺めてみても、その「途切れ」は強く感じることです。もう一つは個人的なことなのですが、制作におけるモチベーションについてです。作品を制作していく上で、できあがったものに100%満足することはなく、常に不満だらけです。ただその時点で結果として終わらせてしまうのではなく、いかにきっかけとして次に繋げていくことができるかだと、最近強く思うようになりました。僕はついこの間卒業制作を終えたばかりなのですが、それは研究の成果をある種のデザインに対する答えとして提示したのではなく、これからデザインというものをどうのようにとらえていったらいいかという一つの「きっかけ」を見つけることができたと思いました。そういう意味で「途切れ」という言葉はデザインにおいても、デザインをする者にとっても、気になる言葉だなぁと思いました。


125 koizumi [2001.3.24_21:38]
「途切れ」について、ここでは明朝体をはじめとしてすべてのタイポグラフィにおいてnakanoさんがいっている通りでしょう。また、ぼくたちは今の制作活動にどのようにそれが影響しているかを理解することなのだと思います。つまり、プロフェッショナルとは?です。ぼくはいまだに挑戦はしてますが、満足したことはありません。困ったことです。ぼくはnakanoさんの作品をみて、なにかを感じました。それはなにかお互いに気になる共通な部分があるのでしょう。おそらく、実は普遍的な部分であって、道具やコミュニケーションの方法が変化しても、それは真に残る部分なのだと思います。


[メモ]
この周辺の議論がもっとされたらよかった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です