T75 n [2001.10.11_22:33]
こんにちは。ルダーの本はまだ読み始めたばかりなので、具体的な内容についての質問は少し整理してからおうかがいさせて頂きたいと思っています。しかし読むにあたって「スイス・タイポグラフィの領域」というものを少し捉えておきたのですが、それについてのアドヴァイスを頂けると大変助かります。私にはバーゼルとチューリッヒでは「厳密には違う」というよりも「明確に違う」ように思えてしまいます。W.W.先生はレクチャーで、楽譜を例示されて音楽にたとえられ、またneue grafikとご自身の作品を並べられて「空間の美しさという共通点」で、同じフィールドの中に存在することを説明して頂きました。「カウンター・スペース」の意識というものが、その領域を示す重要な要素であることは個人的に大収穫でしが、一方でやはり、対立もしくは矛盾のようなものを感じてしまいます。(伝統との対立はなかったのか、という質問も出ていましたが)Grid systemsの影響かもしれませんが、スイス・タイポグラフィには「具体的なルール」が存在するという印象がありました。しかし、バーゼルとチューリッヒの共通点からその領域を考えようとすると、何か造形秩序の哲学のような、カタチではないところにたどり着いてしまう気がします(それも好きですが)。決してその領域を出なかったとされるルダーとW.W.先生の二人の本を読むことで、私なりの認識が出てくるとは思うのですが、「スイス・タイポグラフィ」とは、スタイルというよりも、運動理念みたいなものを示しているのでしょうか。どうぞ、宜しくお願い致します。
T76が横レスでそのまんま話が流れてしまった。
T84 2038 [2001.10.30_7:21]
こんばんは、2038です。私も黒いTypographie発見しました。分厚かったですよ。正方形に近いですし。ビニールがかかって中が覗けませんでしたがやっぱちょっと違うのでしょうか。誰も書いてないので自分で意見します。前回の意見に絡んで。Typographieでは植字工と書体制作者やいわゆるデザイナーとの仕事上の立場みたいなのも語っていますが現在のそういった関係についても疑問を持ちます。完全になくなったわけではありませんが植字工や活字職人のいない今。私の少ない社会経験からだと金銭的な面と、地位?や立場の問題。デザイナーに発注するのも勉強になりました。みなさんはどう考えてますか?
T85 koizumi [2001.11.4_21:00]
2038さん、そうですか、もう売っているのですね。すみません、全然本屋に行けないのでわかりません。おそらくぼくはバーゼルではじめて見ることになることでしょう。あれから、ほんと熱がさめたように他の2人からは来ませんね。では、ぼくが。
分業の件はおそらく自分を知ることから始まると思います。このようにタイポグラフィが多様化してしまうと一般論は通用しないのでは。そして少数の周辺の人との関係でよいものを作るように努力すべきと思います。そして、道具ですがぼくにとって活版は体験だと思っています。現在、活版で生きたタイポグラフィをすることはできないでしょう(ホビーでは可能です)。でもやることには意義があります。そしてこれは確実に今の道具を使用する一助になります。
T87 2038 [2001.11.6_8:33]
ここのところ毎週楽しみしていたのですが。小泉先生、ワインガルトのぼろぼろのTypographieをみたら色のページがありました。その他も上の方の空間がない分ずいぶん印象が違いますね。「自分を知ることから始まる」ですか。自分を見極めないと一般論ですら通用しませんもんね。私の場合、まずそこから考えないと。体験。ワクワクするのも体験の第一歩ですよね。できる限りさわってみようと思います。バーゼルとチューリッヒの話題ですがむかしのT誌にシュミット氏がチューリッヒ・タイポグラフィのとの大きな違いと明言し「元来理念に基づく使命であるタイポグラフィの、退廃や浅薄化を招いたことに関しても、その責を負っている」と、強く正しています。その使命とはこのTypographieから少なからずくみ取れますよね。そして次には山本太郎氏の記述があります。Typographieからのモジュールの引用がありました。どちらもわかりやすい解説ですね。Typographieでは空間の均衡(?)の説明の後見開きでパンテオンとロンシャンですね。黒いやつもそうなのでしょうか。パンテオンをみるといつもコルビュジェの言葉を思い出します。「大理石があるからここにパンテオンが建つんだ」ロンシャンもこの丘に建つべくして建ったんですね。古代建築と現代の大胆な建築を見開きで並べプロポーションの捉え方を解説していますがこの見開きはいいですね。ここでのデザインの必然性を感じます。感覚と直観(直感?)から生まれるモデュール。
T88 koizumi [2001.11.6_11:26]
Book”Typography”/BaselのChatの意義のようなこと:ぼくもまだまだわかり得ないことがこの2册の本には隠されています。つまり、この本の内容を多角的に見て、掘り下げることが重要です。多くのデザインやタイポグラフィの本のように単に作品が紹介されているものとは違うのです(くどいですね、前にも書きました)。つまり、眺めてきれい、アイデアをパクるための本ではないからです。もっと言えば、その本をただ英語から日本語に正確に翻訳したらそれが解決かというと、それも違うとぼくは思っています(これも前にも書きました)。
T89 n [2001.11.7_21:35]
こんばんは・・・もどってきました。
●k000301さん:こちらこそ。私は誤解を生んでしまいがちです。そして、私もモニター上のコミュニケーションがうまくありません。ちょっと道をはずした「調べもの」かもしれませんが。・・ルダーに入ります。「shoddy craftsmanship」「見かけ倒しのクラフトマンシップ」Introductionの始めの方に出てきた、何でもない一言でした。「見かけ倒しのクラフトマンシップと近代愛好主義が起こした混乱・・」たぶんそんな一文です。「では、彼らのクラフトマンシップとは?」という疑問から「ギルド」をマジメに考えました。その神聖な職人精神と発達精神を背景すると、個人的にはわかりやすくなることがありました。(発達精神とは、この場合商業的な意味ではなく、「職」に対する追求心としました)ギルド制度は産業化で衰退しますが、精神は生き続けたのだと思います。本来の「純粋な職人としての発達精神」も頑固に存在し、一方で近代化の波の中で「発達精神」から自己啓発的な思想(うまくいえません)も生まれたのかもしれません。スイスはもしかしたらその2つが純化したのかな、と考えたりしてました。
●チューリッヒには「思想」を感じてました。それは本質を求めた時に、合理性を追求する方向にいった気がします(合理性にいくところが「?」です)そして合理性から職人を「分業」に閉じこめる仕組みを作ったのかもしれません。※
●バーセルは「職人達の手と目を信じる世界」。職人の歴史ある精神を背景した時に「理屈ではなく、これは血なんだ」とやっと自分なりに理解できました。「自然」というコトバも結びつきました。そして職人に徹することができたナゾは、やはりバーゼルの土地や歴史にある気がします。ウイリアム・モリスがギルドに見る「クラフトマンシップ」の特徴。(一部)
生産工程における分業ではなく、ひとつのものをその完成まで自身で作っていく性格を持っていた。
(この精神がいつの時代まで職人の意識にあったのかわかりませんが)本来の「職人精神」がそういうものだとしたら、(上記※)分業は職人を技術者にとどめてしまう気がしました。分業というよりも、そこにあった理論が本来の「職人精神」を壊す仕組みを持つのかもしれません。「イデオロギー的には反対」「T誌のシュミット氏」にも思わず結びつけたくなってしまいますが、しかし、たった一言から始まった思いつきなので、まったくもってわかりません。あまり細かく考えないで読み進めていったほうがいい気がしたので、進めてます。・・建築・・課題です。
T90 koizumi [2001.11.11_20:42]
User-Agent: Microsoft-Outlook-Express-Macintosh-Edition/5.02.2106
Date: Fri, 09 Nov 2001 20:06:33 +0900
Subject: Emil Ruder Typographie
From: helmut schmid
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dear hitoshi,
the 7th edition of emil ruder’s typography is out.
reprinted as the original version of 1967.
ruder’s typography is as fresh today as 34 years ago.
greetings
helmut
T91 2038 [2001.11.12_8:07]
職人の話の展開がちょっとよくわかりません。簡単に言ってしまうと(小泉先生に注意されそうですが)私は今、植字工といわゆるデザイナーのことを問題にしています。日々感じるのは、 いわゆるこのデザイナーというものが希薄になってきている感じがするのです。それで前回まで書いてきたのですが、デザイナーとルダーの言う植字工を比べるとTypographieをやるのはTypographという特殊な技術を取得したものでなければいけないような気がしてくるのです。そうするとやっぱり今その存在に近いのはデザイナーですよね。Weingart, Schumid両氏ともタイプ・セッティングの経験をふまえデザインしていますよね。私は写植もほんの少しで、活字は全然です。ここで私が考えるのがRuderのいう問題が植字工のいない現代において、デザインの中でTypographieをはさみ、それが生じているということです。
小泉先生、私も今のところこのTypographieという言葉に寄りかかっているようです。先日そういう人とちょっと喧嘩してしまいましたが、私もその人と今のところ変わらないのでしょう。ただ読んでるだけではだめなのですね。多角的に見て、掘り下げる。実は全然WeingartのTypographyを読んでいません。最近0431さんは忙しいんですかね?
T92 koizumi [2001.11.12_9:04]
はい、その人によって違うと思いますが、タイポグラフィの習得の方法にはいろいろあると思います。ルダーの本の読み方も。(前に何度も言っていますが)ぼくは必要な時、自然にページを開いているのです。Schmid氏も言っていましたが、1ページから順番に読んでいく本ではありません。喧嘩ですか。。。ほどほどに。他人は他人。自分を確立するほうが重要でしょう。相手があなたにとって大切な人なら別ですが。日本のデザイナー(自称タイポグラファー)は他人を気にし過ぎが多い?Weingartの本の読み方はRuderのとは違うと思います。比較的大きな文字のことばに隠された多くのことがあると考えています。とにかく、この本はこれからです。あわてることはありません。
T93 n [2001.11.16_22:23]
話の展開がわからないというご指摘に反省。書きたかったことは、おそらく「理屈ではない」を自分なりの納得ができたこと。分業については、ポジションで分割できないものを改めて思い出していました。2038さんのギモンと混乱させてしまったのでしたらごめんなさい。ちょっと別のことです。本にシンクロできる前提を探して、つまづいた一言、歴史的な背景は何でもよかったのかもしれませんが、直感の先には知りたいことが潜んでいると信じています。私は思考に暴走癖があるので、ちょっとこっぱずかしいですね。チャットに適した書き込みができるのか・・・心配です。ルダーが現代にいたら、デジタルを受け入れただろうと夢見ています。個人的にはデジタル世代にも、メディアに関わらずタイポグラファの可能性を信じていますが、今は混乱の過渡期と考えています。「可能性」は天から降ってくるのではなく、地から生えてくるものだと思っているので、現代の課題は、やはりその土壌にいる我々なのでしょう。しかし「自称」というのは???語らずとも仕事に出る方を尊敬しています。近頃、行動派爆走中なので、様々な資料や人との出会いがありました。その中には1960年の「TM」(60年代は初めて見ました)、「Typographie」3rd edition 1977、表紙が黒、正方形に近いペーパーバックもありました。ショックでした。しかし、本当の感想はオリジナルを見てからですね。近日中に初版も見れると思います。
T94 koizumi [2001.11.27_1:24]
Ruder’s Typography Original Reproduction版、手に入れました。バーゼルの本屋ではSfr.98.–です。
T95 n [2001.12.11_21:06]
こんにちは。先日は本当にありがとうございました。直接お会いしてお話を伺えたこと、ひとつひとつが貴重な瞬間でした。
—
私が所有しているルダーの「Typographie」は、6th edition 1996のペーパーバックですが、知人から1967年の初版を借りました。オリジナルを開いて最初に感じたのは、成立したグリッドでした。そしてブックデザインというものをとても考えさせられました。直感ですが、それをもって内容を証明するのが、この本の本来の姿なのではないでしょうか。また、オリジナルで初めてあのロゴの意図を見た気がします。Colourのページもびっくりですが、各章の白い扉も眩しく、本全体から放たれたリズムを感じました。初版を見れたのは嬉しいことでしたが、同時にペーパーバック版の変わり様を知ることにもなり、大変ショックでした。ペーパーバックがオリジナルのクオリティを保つことはないでしょうし、サイズが違うことも知ってはいましたが、想像以上の改版であったことに、胸が痛くなりました。正直なところ、こういう改版のあり方は、私には「事件」のように思えてしまいます。グラフィックの混乱が見られるこの時代に、オリジナルに戻るのも、何か重要な意味を持っている気がしました。
T96 koizumi [2001.12.12_9:05]
先日はお会いでき、たいへん貴重なご意見いただきました。どうもありがとうございました。また、多摩美術大学美術館でのレクチャーはぼくにとって、今後自分自身をどうのようにしていくかを見せてくれた好機だと思います。それは20代でルダーのタイポグラフィやTMに出会ったことと同じなのです。さて、オリジナル版の復刻を当日みなさんにお目にかけたのもそのようなことで、初心にかえることはデザイナー、タイポグラファーにとってたいへん大切なことなのだと思います。来てくださって、ありがとうございました。
T97 0431 [2002.3.22_4:28]
こんにちは、おひさしぶりです。2038さんの言うように最近は異常に忙しく、注文していたオリジナルデザインのtypographieがniggliから届くまでここに来る余裕もなく働いてました。。。本の第一印象は今までとは全く違う本と感じました。(こちらがオリジナルなのですが、、、)最近雑誌のデザインをするのですが、よく文章の最後の行が極端に短くなる事を嫌ってその段落や節の文字間隔をいじります。この本を見ると段落の最後の行が1語だけの事があるのですが、ページの中で文字の間隔を変えるのは避けたのでしょうか。それともデザイン的にはあまり重要な事ではないのでしょうか。
T98 koizumi [2002.3.26_21:21]
0431さん、おひさしぶり。niggliから来ましたか。おめでとう。
>ページの中で文字の間隔を変えるのは避けたのでしょうか。
絶対に避けるべきでしょう。余計なことを言いますとぼくの本にはそれを避けるため、そして違った禁則を気づかっていたためたくさんの失敗があります。ほんとうに残念です。日本語は特にむずかしい。
T99 koizumi [2002.3.23_20:37]
みなさん、最新の『ベースライン』を見てください。ABCあたりで売っていると思います。
User-Agent: Microsoft-Outlook-Express-Macintosh-Edition/5.02.2106
Date: Sat, 23 Mar 2002 10:21:00 +0900
Subject: kirschblueten
From: helmut schmid
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dear hitoshi
are you watching the cherry flowers
…
baseline 36 is out and
i am going to send you the issue.
helmut