290 koizumi [2002.5.1_21:38]
建築とタイポグラフィ、科学とタイポグラフィ、写真とタイポグラフィはぼくの人生です。スイスから帰ってきてから『SD』にすこしでも仕事を残せたことは幸せなことでした。杉浦さんが『SD』にどう関わられたかは山口信博さんのインタビューがご参考になると思います。そして東京芸大での展覧会。杉浦さんの実験的な仕事は同じ鹿島出版会の雑誌『都市住宅』をご覧になるとよいと思います。そうですね、ぼくもワインガルト(W)の実験タイポグラフィは杉浦さん(S)のとはプロセスがすこし違うように思います。ただ、使用している言語は違っても結果的には似たようなものが出てきています。特にノイズ・タイポグラフィは一般的に何か最近はコンピュータ上のように思われがちですがWもSも独自の方法で発見し、実際の仕事に活用していると思います。つまり自分の道具からシグナルとノイズがおのずと出現するのだと思います。つまり両者とも素直なんですね。(両先生つかまえて失礼お許しください)この周辺はきちんとまた何かの機会に例を挙げながら勉強会やりたいですね。BBSではちょっと無理かな?(桑沢でやろうか?smtでやろうか?)活字と建築の関わりは古く、バウハウスの教育でも、ウルムの基礎過程でも活字の組版は欠かせなかったもののようです。逆に言えば建築家は活字のシステムを知っていることになるわけですよね。今回始まったばかりの「せんだいメディアテーク」のプロジェクトは直接そこまではいきませんが、地下室にある「ハイデルベルク」プラテンの電動機と「手金」2台をフルに使って、そういう手のわざについて、体験でわかるシステムについて活き活きやりたい!です。


[メモ]
・SD200/08号 034-041ページ
・間-20年後の帰還展


292 koizumi [2002.5.1_22:41
あれは写真の絵本です。それも目が超越した人のための、大人のための、タイポグラファーのための。ただ、建築はやっぱりむずかしい仕事ですよね。メディアテークは伊東豊雄さんの作品です、今日は気持ちよかった。とくに一階のオープンスペースは外の気持ちのよさが入り込んできて、ここで本当にバーゼルでやってるオンライン・ワークショップと同じものをしたくなりました。空間って大切です。とくに想像させる。。。このような気持ちになれる空間はそうはない。



サトル [99.8.29_22:24]
「時間」に関する本を造るというプロジェクトを進行中です。時間と言えば「空間」、ということで強引ではありますが、タイポグラフィと「時間」の関連性に何かお考えをお持ちなら是非お聞かせ願いたいのですが。


koizumi [99.8.30_9:24]
そうですねー。大学院の教科書にも使ってますが、中井正一が「間」について書いてます。杉浦さんがブックデザインされている全集の第2巻だったと思う。これはすばらしいですよ。タイポグラフィとは直接関係ありませんが、美学は絶対知っていた方がよいですね。。。



98 koizumi [2001.1.4_20:27]
デザインとかタイポグラフィは最終的には人間の総合力でしょう。日本画、日本建築の良いものすべてに、もっともっと空間意識として深いものがあります。そういえば、この前芸大でやってた「間」の展覧会行きましたか?30年前のは衝撃的な展覧会(聞き伝え)だったそうですが、今回のはぼくにとっては、ちょっと新鮮さがなかったのでがっかりしました。(驚きがなかった)グローバル化の過程である以上、今の日本人にちょっと何か感じるものがなくてはね。みなさんはどう感じたのかな?


99 渡辺聡哉 [2001.1.5_12:47]
「間」の展覧会は行ってません。随分以前に、「間」の展覧会のポスターとカタログを見てカッコイイと思い、アパートにポスターを張っていました。最近思ったのですが、セザンヌの絵画空間にヨーロッパの伝統と前衛を見たような気がします。彼は、その晩年、映像的空間の構築を目指していたのではないか…。いずれにしても、遠近法から現在に至るまでヨーロッパ文化というのは理論的に体系化された世界ではないのか…。


100 koizumi [2001.1.6_20:17]
そうですか。まあ、「間」は展覧会より自分の頭の中の宇宙で広げた方がよいです。それにしても、とうとうセザンヌ登場ですか。。。すばらしい!21世紀、良いスタートです。ぼくもおっしゃる通りと思います。ヨーロッパでは理論と実践、行ったり戻ったり。。。おもしろいですね。本来、東洋もそのようなはずなのですが?ごめんなさい。「途切れ」については全くその通りだと思います。よかったら、ぼくの研究室で研究してもらえませんか?すばらしいテーマです。


101 チキン [2001.1.8_17:08]
皆さんはじめまして。お邪魔します。写真と映像を作っている大学院生です。日本人の空間感覚の時代的な途切れ、というのは、日本の建築物の性質や、建築史の特性とも関連しているのではないでしょうか。ヨーロッパでは、築100年、200年前の家屋に今も人が住むということが珍しくないですよね。したがって、世代を超えて、おなじ空間感覚を体得かつ共有できるのではないでしょうか。教会や城といった美術のパトロンのすみかも、日本のように政権交代ごとに変るわけではありませんし。それと、気候の違いと色彩感覚、風景の遠近感覚はとても関連しているように思えます。湿気が多く、曇りがちな日の多い日本で見る光や色と、他の気候の地区(とくに乾燥したフランスなど)の光や色は、パレットが全く違います。遠近感覚も、湿気が多いと空気中の水蒸気の粒のズームレンズ効果で遠景が手前にひきよせられて、景色が平面的になりますよね。私の学校には色々な国籍の人がいるのですが、カラープリントの色のだし方で出身地がわかるほど「地域別傾向」があります。同じ街に住んで、同じ街の風景をとっていても、地域色が出るのは不思議です。


102 koizumi [2001.1.8_20:59]
はじめまして。そうですね。具体的にそのような現実的な空間では、そういえると思います。しかし、その前の「途切れ」と言うのはそういう意味ではないとぼくは認識しています。お話の前半と後半でちょっとズレがあるように思えますが、色の件はまったく同意見です。極端に出身が違う人たちとシンプルで同じことをすると自分が見えてくるよね。そして、やっぱ、光なんでしょうね。


103 チキン [2001.1.9_1:47]
お返事ありがとうございます。夜中に急いで書いていたので、話が雑で申し訳ありません。前半は、渡辺さんのコメントから考えたことで、後半は、三次元→二次元の変換作業を日々していて個人的に感じたことにですので話が飛んでしまいました。言いたかったのは、やはり、光の質の違いなんだろうなあということなのです。二次元上で三次元をあらわそうとする時、とくにシャドー部分のカラー/カラーグラデーション/カラーコントラストの具合で随分空間感覚が変化しますよね。同じNYの街を撮るときでも、日本人はオーバーキャストを好み、日本の町や日本画のようにフラットな絵画空間をつくりがちですし、ラテンアメリカ人は快晴を選んで強烈な色彩とコントラストによって躍動的な立体感を出そうとします。とても大雑把な例ですけれども、そういう違いを目の当たりにしていると、光の質と色彩感覚、立体感覚、空間認識の関連性をつくづく感じるのです。当たり前すぎる話ですが。ところで、先生と渡辺さんのおっしゃっている「途切れ」というのはどういう意味なのでしょうか?


104 渡辺聡哉 [2001.1.9_12:44]
こんにちは。空間に対する意識の問題はhtypoの空間のセンスを始めるようになってから自分の中で芽生えたものです。かなり勉強になりますので、スペース、組版、表組のセンスの開講を忘れないでください。よろしくお願いします。若沖のモザイク画には本当にビックリしました。アメリカの収集家・研究家の中にはこのモザイク一枚一枚をすべて複写してパソコンの中にデータとして保存、研究している人がいるそうですが、実に分析的な研究です。日本の研究はわりと感情論的になるので、これは見習うべきだと思いました。チキンさんのいうように、空間に対する光の問題は無視できない非常に重要な事だと思います。私は海外へ行った事がないので、その光の度合いがヨーロッパと日本でどう違うのかよくわからないのが残念です。ここまで来ると、平面上の一つの空間を理解するのに、様々な学問をクロスオーバーさせながら研究していかないとダメだと痛感しました。この問題は奥が深いようです。途切れということですが、ヨーロッパの空間事物に関する考え方の基準はルネッサンス期の遠近方にあるように思われてしょうがありません。遠近法という点が線となってヨーロッパの人達の中に息づいているような…。ですから、欧米におけるアバンギャルドも理詰めで説明できるのかもしれません。根拠があるという事でしょうか。日本において、その根拠になるものは確かに存在するはずなのですが、なにか歴史的に曖昧なような気がします…。最近出版されたユリイカという雑誌の江戸特集で、戸田ツトムが琳派におけるグラフィズムの論考を発表しているので、興味のある方は是非読んでください。非常におもしろいです。


105 BIRD [2001.1.10_2:58]
渡辺さん、チキンさんのお話をとても興味深く拝見しました。こういったことは、みなさんどのように学ばれているのでしょうか?私は独学なので、学べる場や人を知らず、手探り状態で今いきづまっています。もっと勉強が出来る環境がほしいのですが。。。


106 koizumi [2001.1.10_11:43]
ごめんなさい。きのうから大学がはじまり、書き込めませんでした。チキンさんと渡辺さんのやりとりいいですね。だんだんタイポグラフィそのものからは離れてきているものの、モノの真髄を追求することは何か次を生む活力になります。つまり、全くクロスオーバーです。総合力です。「途切れ」に関しては実はぼくも勉強不足で、そのすじの方からおしかりを受けるかもしれませんが、日本ではそういった大切なことを曖昧にしてしまう悪いクセがあると思います。どの分野でも流行りにしたり、有名な方が語ればそれで終わり。そういうことでなく地道に違った分野の人も継承してやることが重要と思います。デザインやタイポグラフィも同じ。一時のカッコウで流されたくないですね。 BIRDさんもがんばってください。行き詰まっても貪欲に探りまくる姿勢が独学には必要です。学校で学ぶより、それ以上の結果が出ることもあります。琳派。。。いいね。ぼくの机の前にいつもポストカード貼ってあります。


>当時は感じてなかったのですけど、論点が「間」から「途切れ」に変わっちゃっていたんですね。


Aoki Hiroshi [99.8.6_22:57]
はじめまして。 岡倉覚三著『茶の本』を読みました。共感する部分が多く、面白かったです。私は年に何度か京都に行くのですが、 枯山水の庭と、こちらのめざすタイポグラフィと、かなり似ている部分が多いと思うのですが、如何でしょうか?私のお気に入りの庭は龍安寺と、東福寺の方丈庭園です。


koizumi [99.8.11_9:14]
京都。いいですね。大好きです。ぼくも必ず大徳寺大仙院と龍安寺にはうかがいます。あと、やっぱり湯どうふですね。おきまりコース。 でも最近行けなくて困ってます。枯山水はタイポグラファーにとって重要な場所、尊敬するヘルムート・シュミットさんともすばらしい思い出があります。



u_top [2000.2.22_3:14]
大学で建築構造を学ぶ者です。 建築におけるデザインには構造によって決定される、つまり (数学的な)根拠による美が存在しますが 他のデザイン(グラフィックス、等々)にも同じような物があるのではないかと、常々考えています。しかしなかなか発見できないこともあるんですね。実際存在しないのかもしれないと思ってしまうのですが、 どうでしょう?


koizumi [2000.2.22_20:06]
これがまさしく 俗にいう スイス・タイポグラフィです。 『本づくり大全』見てください。 しかし、存在しないのでなく、建築のみならず無限の可能性がある。(8の横マーク) どうでしょう?



513 T.W. [2005.6.16_20:25]
こんにちは。基準を設けるということですが、ヨーロッパでは、遠近法を活用していますが、日本では、古来より幽玄的な時間と平面性を融合させた独自の物の見方をしているため、文化が違う。要するに、ヨーロッパとアジアでは、元々基準軸が異なるのではないでしょうか…。ダンスやバレーと舞いや舞踏の違い、一神教と八百万の神の違い…。今回のアイデア誌の後半は杉浦康平の特集ですが、前半のヨーロッパ的発想との違いを考察する事が必要なのでは…。やはり、スイス派を知る為にはスイスに行く必要があるのではないでしょうか。そこで、アジア人たる我々はどういう立ち振る舞いをするべきなのか…。しかし、なぜスイス派に対する我々の憧れはあまりにも強いのだろうか…日本人が日本人を忘れてしまおうとでもしているのでしょうか。しかし若い人を見ているとなんとなく頷ける昨今です。アメリカンやヨーロピアンがたくさんいます。でも本当は、日本はもっとカッコイイんじゃないのかなぁ…。


514 koizumi [2005.6.17_16:17]
さて、基準。それもむずかしいんですよね。ご指摘通りですが、日本の文化は非常に柔軟と思います。また、杉浦さん研究(論でなく実践)は多角的に絶対にやるべきです。ぼくも実は杉浦さんの若い頃からの発言はできるだけファイルしているのですが、今回の論点に重なると思います。しかし深すぎて、ぼくはギブアップです。ぜひ、T.W.さんどっかでこの周辺のこと発表してください。ぼくは、20代バーゼル前に茶道。そしてこの春復活。日本の文化は完璧に近い。そして美しい。とにかく、ぼくは日本人ですよ(^^) スイスにはいましたけどネ。。。山脇夫妻のバウハウス留学にも茶道が関係しています。新潮社刊『バウハウスと茶の湯』は良い本です。

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