「利休のかたち」展にて

大晦日に会場にて『山上宗二記 (今日庵文庫蔵)』を拝見。論点となる「山ヲ谷西ヲ東ト茶湯ノ破法度物ヲ自由ニス、」のところの解釈が、利休は茶ノ湯を自由になしたが、名人なればこそ正道は外れないという旨。この解釈が、決して7Fのようなことではような気がする。
指月集には「茶道の本意は、ひとえに清閑をたのしぶ人に存して、墨宝、名器の中にあらず。」とある。
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茶道具には「利休好み」や「利休形」など千利休の名を冠した道具が数多くあるが、それがはたしてデザインとしてスタンダードとなっている「利休のかたち」ということなのか、、、東京・松屋銀座で「利休のかたち – 継承されるデザインと心」展2020年1月20日まで。
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それは儀礼的なものを無視したことでなく、…古人もこれを茶の湯の心得、その法式を大切にすることのみを心懸けていたが、「易ハ、其法式ヲ階子ニシテ、多少高キ所ニモ登リタキ志」があってそれに立ち向かったのである。
『茶の美学』p.83–84

久以

侘た炉縁。+1歳の記念に。
ふさわしい来客時に、この景色をぜひ。この極自然で作為のない木目、色と艶。完成の域に達してきた。(普段の炉縁は直記作)

春入千林處々鶯

元伯宗旦が、類語として「花」を「鶯」に置き換え視覚を聴覚に移行した句を編み出した。元句は
葛藤集、北磵居簡禅師語録 春入千林處々花 はるは せんりんにいる しょしょの はな (秋沈万水家々月 あきは ばんすいに しずむ かかの つき)前半句=春は至るところに一樣の花。季候各本分ありの意。法性は何處も彼處も一様、つまり森羅万象すべてに、平等に仏の世界(法性)が行き渡り、人は一切の衆生を備え、仏になれる本性のない人はいない。それは無限の大自然の見えない働きにたとえて、仏の慈悲がいかに公平無私にして広大無辺であるかとした。即中斎最晩年筆七字一行物。金霞料紙、14代飛来一閑造軸先、春芳堂表具、桐塗二重箱。ケカウ!
高島屋好み物展において、3.猶有斎筆七字二行物。トリメメ

栗に芥子

大小を組み合わす/対照
重々しき道具に、寂びて軽き物
肩衝の茶入に、薄茶は棗
丸壺に、中次
雲龍に、盥の水指
大風炉に、小板
古織の細口の釜に、小ぶりなる柄杓

ノンコウ七種

黒茶碗
稲妻 江岑書付
獅子 如心斎書付
升 覚々斎書付
千鳥 覚々斎書付
赤茶碗
鳳林 江岑書付
若山 如心斎書付
鵺 覚々斎書付
昨日のは、赤で、京焼となっていた
宗旦の時代だと、古いのか、、、道入初期?

紹鷗緞子写帛紗

友湖による写し、本歌は名物裂紹鷗緞子
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009076
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0010199
やはり東博にある。明時代の古裂手鑑にもある一重蔓唐草の中にうまく火焔が遇われ、雨龍も配されているよう。武野紹鷗の愛用していたものに由来するが、十四屋宗悟が所有していた宗悟緞子にも関係があるようだが、どのように出来上がったのか詳しくはわかりません。この出帛紗、なぜかシンプルで、ほんとうっとり。

即中斎在判 独楽ノ紋香合

今日は山鉾巡行。
20190717-即中斎香合.jpg
さて、写真は井上良斎作の染付。最初に見つけたものですが、成約済みでした。これは即中斎の書付(箱書)はあるのですが、香合の蓋裏に花押が書かれていない。その後いくつか見かけたのですが、在判のものはないのです、、、謎。坂倉新兵衛13代と14代も作っているようですが、ぼくのは12代の、全体に、ほんわかした色合い、手触りも抜群の萩焼き。もちろん、朱書きの在判、箱書も素晴らしい。本当にこの香合のような即中斎の解釈が好きで好きでたまらない。こういうことを「傳来写シ」というのだろう。
どうして、ここまでこだわって探しているのか理由がある。
三千家の独楽の家紋に微妙な記号的な差があり(ツボツボも同様に位置と重なりの違い)、おそらくことのはじめは如心斎自作二つの香合、これが「本歌」なのだと思う。これは丸みを帯びていて黒っぽい。即中斎のものはほとんどが白っぽく、平たい。それと、渦のカタチはシンプルに、、、まだまだいろいろと探索は続くのですが。
https://www.kitayamakaikan.jp/test/exhibition/past/2005/pdf/exhibition_20050609_mokuroku.pdf
独楽紋・Komamon