Adobe、見習え。
口伝
筒茶碗。一客一亭。 基本中の基本を正確に。先生のkuden素晴らしい。やはり、稽古を繰り返すこと。これはリモートでは絶対に無理。技を教えるということ。
「差別」と「区別」の違い
「差別」はしてはいけない。「区別」は必要。
江岑のおしえ2
「一 茶之湯ろくニなく候てハあしく候、たてなる事あしく候、、、(57条)」
『逢源斎書 上』の一文の駆け出しに、茶の湯の真髄を述べたものがある。江岑の美意識であった「ろく(碌=陸)」とは、たいらでまっすぐでゆがみがないこと、まっとうで慎ましやかで目立たない、いわば麁相(そそう)の美。
それと対極にあるのが「たて(立テ)=伊達(だて)」無闇に派手に見せること、古田織部と金森宗和の茶の美。織部はひずんだ造形の道具を好んだ。このような美意識は、普通でない姿「異風異体」あるいは人目につくような変わったことをする「かぶき(傾キ)=歌舞伎」の美ともいわれ、流行りのアート作品にも通じる。宗和も同じく、野々村仁清の手になる優美で華やかな茶風で「姫宗和」と称された。現在もこれらの流れは色こく継承され、理解しやすい茶の湯の美の代表とされている。つまり江岑は「ろくでもない」と言い放っている。
#Mori resign
「元々、会長職に未練はなく、いったんは辞任する腹を決めたが、武藤敏郎事務総長らの強い説得で思いとどまった」って? 謝罪したって、撤回したって、根本的に不適格な人。やりたくないなら自主的にやめろ。
江岑消息
利休の孫宗旦が三男江岑(こうしん)宗左に不審菴を譲ったところから表千家は成立した。そのことが「宗左」の名のり初め。夏書(げかき)は有名だが、こまめに茶の湯に関する覚書や消息を残したのだろうと推測する。茶をいただいたお礼にというのは、いかにも、この茶書に関係があり「極(ごく)」に違いない。
また「一 表具之寸方いたし様之事、大事ニ候、寸方かんやうなり、取合同前、、、」が気になるところ。江岑は、当時表具の裂の取合せばかりに関心が向けられるようになった風潮に対し、寸方=寸法の大切さを述べている。それは利休、少庵そして宗旦が表具をほどこした掛物の寸法を書きとめていることにあらわれているのです。つまり、本紙の大きさとバランスのとれた表具をするため、利休をはじめとする先達の表具の寸法を手本にしたのでしょう。ぼくには茶掛の原点が江岑にあると感じる。おそらく、受取人が表具をした江岑の文(ふみ)の寸法は、本紙は当時に多い大きさ縦13.5cm、横(まちまち)41.5cmで横長。そして、この表具の「天」が38cm、「地」が18cm。中廻しの上と下の部分はそれぞれ12cm、6cm、一文字の上と下の部分はそれぞれ3cm、1.8cm(=これらは縦の幅の寸法)。そして風帯の横幅は1.9cm。これもその一つかどうかというところ。
別冊同門 下
やっと、玄関さんの6人目の方、正しいと思います。よかった、ぼうずかと思いました。
釜を懸ける心がまえ、すなわち、ことをなす前に自分を清める。身の回りも清める。これです。掃除、普段の巷のお稽古では絶対に教わらないが、この方の文中にちょっと触れられている。家元での掃除、とても貴重なエピソード。でも、もっと詳細を正確に知りたい。「稽古照今」とは当たり前、ではそれは具体的になんぞや?掛物や花も当たり前。まず掃除です!
バーゼルでも印刷機の入念な掃除の仕方を習ったことが、一番の記憶に残っています。それを通してなぜ次が見えてくるのか、全てに言えること。洗心自新
高磁水盤
直接の茶道具ではないけど、七官青磁八卦文三脚鉢(おそらく比較的新しい天龍寺手)が手に入った。初めての唐物、もちろん茶会の石菖盆に使う。ふつう底の釉薬がのっていない土色の部分はもっと荒く古っぽく汚いのですが、前の持ち主がおそらく神経質に洗った結果ではないかとのこと、なのでぼくのはすっきりとてもキレイ。普通は詫好みなのだが、全く正しい!石菖は清らかなもの、水を張っておくわけですし。憧れの康成所持の北宋汝窯の透き通る緑とは全く違うが、清時代のを用の美としたのはいいのだろう、とにかく普段使い!この出は京都の茶人のようで、先日の翠巌石菖のお軸と同じ所有者の子孫から譲り受けた。残念なのはこれらの由緒を正確にお聞きしたかったこと。
これからの春に向け、育てている石菖蒲を株分けして、炭に植える。楽しみ楽しみ。それにしても何者なのだろうか。未だ詳細はわからない謎である。
麒麟がくる 茶の湯編(仮題)
本編では、もの足らなすぎ。なのでぜひ特別番組を作ってほしい。今日のは茶の湯のことが一切なかった、、、前回の十兵衛のセリフが興味深かったので、あえて:
「名物は持つものに覚悟がいると聞き及びました。
如何なる折にも誇りを失わぬ者
志高き者
心美しき者であるべきと、、、
美しく飾るだけでは、人はついてこない。」
それにしても、松永久秀の平蜘蛛の解釈は劇的すぎw この釜の行方は諸説ある。有名すぎる俗説で「釜と一緒に日本史上初の爆死」という誤り、後世に戦国武将と茶道具の関わりを賞賛した謂れ。史料には、
吉田兼見の『兼見卿記』、久秀・久通父子は切腹し、信貴山城に放火したとされている。その後、首は信長のいる安土城に送られた説。平蜘蛛については書いていない。
太田牛一の『大かうさまくんきのうち』、久秀・久通父子の首は信貴山城の天守に火を掛け、平蜘蛛を打ち砕くとそのまま焼死したとある。自らの手で平蜘蛛を破壊したという説。
田中吉政に仕えた川角三郎右衛門の聞書『川角太閤記』、久秀の首と平蜘蛛が鉄砲の火薬で木っ端みじんに砕かれた説。
これらの説をもとに、後世の史家や作家によって近松などのように劇場的におもしろく膨らましたのだろう。逸話にはよくあること。今回のは信長が今井宗久に売るって、一万貫すごいな~~NHK。以前の放送でみせてくれたけど、宗久の点前(柄杓の扱い)がなんと下手なことww おもしろいので、この調子でこの頃の茶人達の話だけでやってほしい。ほかの名物のことも含め(光秀所持の「八重桜」という壺のこともあるし)。とにかくこの時代の茶の湯のことを想像すると楽しい。
満目是春風
「まんもくこれしゅんぷう」は春爛漫の歌でよく掛けられる。しかし即中斎高弟による書は堂々と「満目是秋風」と書いてある。秋風であって春風ではない。いくら探してもこれらのようであって、表千家の書にはない。おそらく出典は、天台山徳韶国師の景徳伝灯録(巻二十五)
心外無法滿目青山
しんげむほうまんもくせいざん
一般に夏山を見るときは、満目、つまりすべて山、山山になりきった様子をいうが、(春の場合は単なる春春、このような季節の風景の歌ではなく)実は禅語では季節には関係なく「心境一如なる故に、心外には法無く、目に見ゆる青山も我心に外ならずと、一心と外境の不二なるをいふ」という意味なので、あえて春を秋にしてしまっても問題ないのではないかと、ではなかろうか? 即中斎高弟は、広島の永田宗伴、大阪の八幡宗豊、園部桃隣などが知られているが、この方々と宗匠の当時の茶室でのやりとりにとても興味がある。謎でつまり、それが最後のTea schoolなのである。
ひょっとすると、李白の秋浦歌「満目蕭条(まんもくしょうじょう)」のことなのかもしれないが、、、