壺中日月長

こちゅうじつげつながし
『虚堂録』巻八
只知池上蟠桃熟。不覺壺中日月長。の強調すべき部分の五字禅語。
壺の中は「壺中天」「壺中天地」とも言われ、中国の伝説によれば別天地があって、日月の運行は長久だという。
禅では悟りの境地の喩え、そこは時間の単位が長いというよりは、時間的制約や束縛を超越している場。
この軸「胤衲出?」を掛けることにより、時空を超える。金堂壁画焼失の時の幻であろうか、解読できるかできないかの謎な墨跡。澤木興道は1908年法隆寺勧学院に入り、この大僧正に唯識を学んだ。言葉がみつからない。合掌。先日の黄檗百拙のもよかったが、こっちの方がなんとなく味がある。

ところで、茶の湯では、茶室と茶壺と小壺(茶入)の各々の中、三つの無限な空間が存在する。おそらく全て大小同じ世界だと考えられている。

令和2年12月号 同門

別冊。かなり激震です。

この媒体に玄関さんの原稿を載せるといったことは、前代未聞ではないでしょうか。覚々斎以降、家元を頂点とした家元制度が確立してきたのに、とうとうここまで。三木町氏(弟さん?)の口上というのはどうなんでしょうか? たとえ大役を担っていたとしても影で働くべき。基本は家元が全てをお決めになって、千家から発する言葉は全て家元の言葉であって。家元たる千家当主は絶対的なもの。そこから直属の門弟に稽古をつけていくのはないでしょうか? (ぼくのような下の下がいうようなことではありませんが)。今後の表千家は猶有からではなく家元グループとして存在していくのでしょうか?さて、散文は六人のうち二人のが載っているのですが、この話は何なんでしょうか?「釜を懸ける」ということの答えにはなっていない。良いテーマなのにとても残念です。

一方、昔のたとえ、惺斎や即中の高弟たち。ある意味完全であったに違いない。元千家にいらして独立されて茶人になってからのことでしょう。そういった方々は、真の茶人であって、その経験や感想あるいは内訳話を発表したり、門外不出の宗匠の稽古などは口外しなかったのでは。それも含め茶の行いとして。

ぼくら後世のものは、高弟の極メとか墨筆とかで度々目にすることはあるが、その力量はそこから想像できるのであって、個性もあるがその宗匠の色もあって、とてもよい味を醸し出している。この文章のようなインタビューのようなものはおそらく存在しないのでは。それらは茶人として理解できる人が理解すれば良いのであって。そういう意味で、一般の人向けの即中の書物は、際立って美しいと考えられる。

このことはバーゼルで学んだデザイン教育とよく似ている。師と弟子の関係。おそらく禅の僧侶も同じなのではないだろうか。

練馬区立牧野記念庭園記念館

とても好きな場所のひとつ。今年の1月に突然だったにも関わらず菅原先生をご紹介いただき、お世話になった学芸員の伊藤さんにお礼をしに出かけた。本ができて一ヶ月以上、ご挨拶に出られず、行動ができないもどかしさ。記念館では書籍販売ができないので、帰りにご紹介いただいた近所の書店に営業。

  • くまざわ書店 大泉学園店
  • ジュンク堂書店 大泉学園店
    おそらく、こちらには『ボタニスト』置いてくださると思います。

記念館で12月6日まで、『牧野日本植物図鑑』出版80周年記念展を開催中。牧野博士の原画は標本とは違った魅力がある。

8Kで文化財「ふれる・まわせる名茶碗」

東博の「特別展桃山天下人の100年」の帰りに気になったので寄った。なかなかおもしろい。国宝を手にするという考えがいい。とにかく今までは絶対にありえないわけだ。しかし、学芸員が茶碗を知らない人なんだなあというのが実感。このような茶碗をあのような状況と姿勢で触ることはまずありえない。裏庭の六窓庵か転合庵できちんとした作法で拝見するという企画にすべきと思う。それと茶碗の展示すべてですが、レベルをあと5センチ下げて欲しい。全て見込みをゆったり見ることができない。展示の担当者はほんとうに知らないんだなぁ、素人。残念。

それにしても信長秀吉家康三幅並んだお軸は圧巻。惚れ惚れする。

徹道一香居士

1952年の今日、亡くなった。いつもは当日にお墓参りするのですが、今日は内装工事なので、昨日母と堀切の正王寺へ。その後、良之さんともお話できた。帰路で駅前の魚屋で秋刀魚を二匹買って、塩焼きにして食べた。やっと日常に戻ってきた。

令和2年11月号 同門

今月号も先月に続いて良い。「吸茶」のこと。濃茶は飲み回しであって「各服点」ではない。先日の裏に対しての答えは、天晴れ以上!

うちでは毎週、妹と一客一亭の稽古。もう半年以上続いている。当然、一碗を共有。

AERA 1825号

p.9の内田樹氏のコラムはとてもいい。

「大学人」=サラリーマン

「学者」=職人(ギルド)

まさしくこれだ。おそらく今は前者しか残れない。ぼくが大学をやめた多くの理由のうちの一つでもある。ある日、ペーペーの事務方から指図=命令を受けた。「教授会で決まったことだから、、、(当時の教授会はすでに全て事務方が作ったシナリオ)」と言われ、ぼくはそれをお前から押しつけられる覚えはない。完全な暴力であった。本当に腐った大学であった。何のためにぼくは当時デザイン教育を学生のために追求していたのだろうか。全てを疑った記憶が蘇る。

p.11の「すがすが(菅菅)しい=うさん臭い」という浜氏もまたいい。