諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教

しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう

一休の書であまりにも有名。
もろもろの悪をなすことなかれ
もろもろの善を奉行し
自らそのこころを浄くせよ
これ諸仏の教えなり

道徳的で、基本中の基本。おとなしいよい掛物と出会えた。おそらく大徳寺169世墨蹟、ぼくの見立てだと19字のうち15の文字は確証。真筆だと思う。生ぶ表具もいい状態で二つの落款の印影も一致。贋作だったとしても、すごくいい(このぐらいの書になると極めがないものは贋作と考えてよい)。これは素晴らしい贋作w

令和2年10月号 同門

今月号の記事はとても良い。しびれる。猶有斎が即中斎のを引用している。1939年雑誌『わび』に掲載、あまりに共感したので引用させていただく。

 「茶道においては、完全なものより不完全なものにその貴さを見出さんとする傾向がある。具足したものよりも不具足のもの、満足せるものより不満足なものにより以上の価値を見出す態度である。これは侘びという精神にも大いに関連してくるが、これと相関して考えられるのは、近時物資の節約が叫ばれる折柄、各人がお互いに自粛してその目的を達せねばならない。不自由を忍ばねばならない。しかも不自由を単に不自由として忍だけではいけない。不自由の中に自由を見出さねばならない。不満足の中に満足を覚えるのである。不自由を単に不自由として消極的に耐え忍ぶのではなく、不自由の中に積極的に満足を感じて、充足を覚え楽しさを感ずるのである。これが茶道の態度である。

 平凡なことを平凡にやってのけるには、平凡以上の力がいる。平凡なことを平凡にして、しかもそこに自らの妙味を見出すことは、一朝一夕ではできない。これを悟れば、すべての日常のことに無限の滋味が湧いてくる。一度縁あって茶道にいそしんだ人々は、茶道の修練によって、この境地に達して頂きたいと思う。」

昔から、茶の湯の宗匠とは何者なんだろう、、、

僧侶のようで僧侶ではない。

武士のようでそうではない。

貴族のようでそうではない。

芸術家のようでそうではない。

演出家、演じ手のようでのようでそうではない。

料理人のようでそうではない。

書家、水墨画家のようでそうではない。

職人のようでそうではない。

教師のようでのようでそうではない。

目利き、鑑定士のようでそうではない。

花は生けるが華道家ではない。

達磨大師

一昨日、また負けた。やはり自然と気の迷いが最後に出るようだ。

普通は「想像上のダルマの肖像」の掛けものなのだけど、書のが珍しく出た。それも天祐筆、大亀の箱書付きで二重箱。すごい! 読売新聞社の本に載っているのより崩れ方が好み。特に「圓」の字が不思議、なので欲しかった。

難を言えば、落款しかない(署名その他が書かれてない)。それと表具をやりかえているみたい(時代箱の箱書もちょっと?)。それらの点で高額になってくると、ぼくの場合ブレが生じる。それにしても、二回も終了1秒前で、入札してきて高値更新するすごいテクニックの奴(自動入札の設定なのだろうか)。残念だけど、まっ、あれは高過ぎだな。

盛阿弥

江戸初期の棗。太字の了々斎在判。

盛阿弥初代は千利休のどのような塗師であったのだろう。その頃は十職は存在しなかったし、後に名付けられた利休形ではない形だったので所持することにした。蓋が浅く、身とのプロポーションが明らかに違っていて、合口端の位置がとても新鮮。とてもゆったりとしたふくよかな佇まいの棗。

ちりに近い板には小さな「盛」の針彫りがきちんとある。三代続いていたらしいが、後世の後彫りが多いとみられ、確証のある作には乏しいらしいが、そのようなことはあまり気にしない。とにかくとても古い黒棗で、黒のようだがほんのり飴色、とても使われた様子で気に入っている。

天然忌の円相

即中斎の円相の多くは中心に「夢」と書かれているが、そうではなく四角の枠の中と外の二円相。花押と箱書からしておそらく若書。家元1936–1979年なので1940年代の戦中であろうか。円相の大きさは各々、茶碗の中と同等に見立てることができる大きさ。小さい=おそらくちょうど即中斎の点茶での茶筅の纏めの大きさに匹敵。中に「天然」外に「坊守リヘ」ではないが、うちではこのお軸を天然忌に掛けるとする。如心斎から数えて六代後の家元の円相を。もともと、家元制度の基を作り出した中興の祖といわれる如心斎に敬意を表するために居士の遺徳を偲び9月13日に「天然忌」が営まれる。残月亭の床にその円相が掛けられ、白い芙蓉を入れられ、お茶湯を供えらる。肖像画はない。

それにしても、ゲルストナーの講演の衝撃的な円相もすばらしかった。思い出す。今日は重陽、菊の道具はまだない。

茶筅

このような茶筅がある。驚いた。アルコール消毒ができる。よくある店先で和菓子と抹茶を振る舞うための道具には最適である。しかし、これは茶道では使えない、ありえない。使う気はしないが、きちんと点つのだろうか? 茶筅はとても微妙な道具で、竹であっても反発の具合で、茶碗の茶溜りとの関係などで全く点ち方が変わってくる。

茶筅とうじをしている時、竹の繊維にお湯が滲み入ってゆく香りがなんとも言えない。点てている亭主本人しか味わえない。精神統一の香りそのもの。