大衆タイポグラフィ偶感(仮説)

「純タイポグラフィと大衆タイポグラフィは文字への関心のあり方や表現の方法が違う、二つの異質の形態のように思われるからです。大衆タイポグラファーは簡単には純タイポグラフィをできませんし、純タイポグラファーもたやすくは波瀾万丈の仕事はできないでしょう。というよりは相互に相手方の領域に対する関心はうすく、さほど創作意欲もそそられないというのが真実ではないでしょうか。○○さんのように、やすやすと両方をこなした人はむしろ稀な例のように思われます。」
『ふるさとへ廻る六部は』pp.189

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