澤木興道筆 萬象之中独露身… (1941)

とうとう探していた掛物に出会った(なんと、ヤフオクで見つけたので10年以上ぶりに入札してみた)。茶掛けというより、仏事掛けなのかもしれない。表装が傷んでいるが(一種の詫び)、「回」の字なんか感動的(渦=無限大の円相)! 筆が走っている。生生きとした書を見ていると想像が膨らむ。この30日は父元治の22回忌。檀家にしていただいた佐久の貞祥寺には澤木老師の書がいくつも掲げられている。いつかはうちにも、、、と思っていた。また手に入れた禅語がとてもいい。
萬象之中独露身
ばんしょうのうちどくろしん
更砂何処著根塵
さらにいづれのところにおいてか、こんじんをつけん
回首独倚枯藤立
こうべをめぐらして、ひとりことうによってたてば
人見山兮山見人
ひと やまをみ、やま ひとをみる
中国唐末の禅僧、長慶慧稜禅師が悟りを開いた時の心境を述べた偈があります。(景徳伝灯録、巻十八)「万象の中に独り身を露あらわす(森羅万象の中における独尊の身。各自の本来人をいう。天上天下唯我独尊と同じ)」からはじまって、、、
鎌倉後期から南北朝にかけての曹洞宗の僧、大智祖継(永平六代の祖)による山居の偈頌(げじゅ)集に収まっている一篇。
https://www2.dhii.jp/nijl_opendata/searchlist.php?md=thumbs&bib=200013620
最後の「疑うらくは私が山を見ているのだろうか、山が私を見ているのだろうか」という意味の言葉、現世ついには問答を勘違いして人が山を見るだけの世界になり、人が山を切り崩し、山を征服するようになった。つまり一方通行の、、、
澤木老師の著作は相当読んだから、この掛軸から話の世界はここ小さな茶室で広がるけど、同じ禅僧でも、小慣れた書(書家と類似するような良い姿の書)では、その僧侶の禅の世界は説明できないし、前大徳塔頭一行物や一字書みたいな高価でかっこいい書は、たぶん理解できないので購入することはないだろう。やはり、ぼくの原点は福井の永平寺(1244)と輪島の總持寺(1321)なのかもしれない。京都の大徳寺(1325)は何度も訪れているが、重要なところには入れないし、偉大すぎてぼくの茶のレベルでは接点があまりにもない。

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