令和4年10月号 同門

pp.14, 15からの抜粋

お茶の味:古田織部⇄浅野幸長

一、うす茶はいかにもそそう(粗相=利休好み)に、

武者小路(有隣斎)
作意のないさらりとしたおどろくくらい手ばやく点てる
茶の気が失せぬ工夫


雲がすぐ消えるように脚が速い=雲脚茶(うんぎゃくちゃ)
泡を一面にたてない
粗相の茶の趣

一、こい茶の時は、柄杓に湯一はいよし、すくなきは悪く候、

宗旦の濃茶はゆるかった。
右手で茶を練り、左手は茶碗に添えなかった

織部から濃くなった。湯を注ぐことを一度で済ませた
茶の量と湯の量は決まっているので(計りやすい)

茶杓 淀川と雨請

良休宗佐作茶杓「淀川」は、即中斎が自作の基本とした茶杓である。如心斎は、千家から離れていたこの茶杓を手に入れ、与太郎(啐啄斎)三歳の時に、如心斎の替筒も添えられ、箱の蓋裏に「随流宗佐紀州ヘ下向之節、淀川舟中ニテノ作ナリ、与太郎ヘ」と記している。了々斎も三十八歳の時、吸江斎が七歳で久田家から養子に来た記念に「淀川」を贈っていいる。その吸江斎もまた碌々斎にそれを譲理、その時に「淀川写し」も添えたということになっている。このように家伝を代々譲るという記録が。基本、これこそ流派の源。表千家同門なら「淀川」を拝見しておきたい。逆理のような「雨請」と並べてみたい。

出典:特別展「200年遠忌記念 啐啄斎ゆかりの茶道具展」2008
https://www.kitayamakaikan.jp/test/exhibition/past/2005/special20080426_item03.html
出典:金沢市立中村記念美術館、替筒が随流斎作で、「雨請」と似ている。
https://www.kanazawa-museum.jp/nakamura/collection/collection_6.html

「雨請」もちろん二重箱で入念に帛紗で覆って。前の所持者の方はとても大切にされていたことがわかる。

千里同風

出典『景徳傳燈録』。遥か彼方まで同じ風が吹くの意から、よく治まった世の中、乱れた世の中、というようにその全体の同様を表す。仏教で風とは教えであり、時空を超えてどこにいようともかわらないという意。おそらく1950年庚寅に扇面に記されたものを(秋田の?)所有の方が個人的に表装されたよう。なので共箱なし。即中斎の十八番の禅語? しかしあまりお軸現物は見かけたことがない。どうしてなんだろう? 「千」の書き方は2種類あり。1937年36歳で家元を継ぎ、1949年財団法人不審庵を設立。その頃の書、花押の上に「不審」とある。
容易に目にできるものとしては、1975年、法人設立記念大会記録集は記念茶会および講演会を収録した『千里』と茶の湯美術展の大要を収録した『同風』という刊行物。その書籍セットの帙の題箋の書よりも若々しい。とてもいい。白紙の手紙を思わせる。
おそらく扇の骨数は五間。蝙蝠(かわほり)左右の寸法がうまく合わないことから、左右を切り取ってバランスよく配した感がある。風、すなわち扇面に最適と言える。

NHK 歴史探偵 茶人・千利休

初回放送日: 2022年9月7日

石田三成の関わりは、相当深いテーマです。
このように結論付けるのは、いささか軽い。さて、

付け足しのテーマ:「茶わんの科学調査」赤外線サーモグラフィーで温度変化について、

  • 樂家二代・常慶作の黒樂茶碗=プライスレス
  • 天目茶碗(元-明時代)
  • 珠光青磁茶碗(明時代)
    いづれもこのように並べるじたい、茶碗に、過去の所持者に、失礼。
    そういう由緒の茶碗。単に自分のwを見せびらかすコーナーに成り下がった。

番組では、80度、70cc(お茶を点てるのと同じ温度と量)の湯を二人が同時に注ぐ。安定の樂、「樂茶碗は、熱しにくく冷めにくい性質を持つことがわかりました。」だって。当たり前。おそらく武者小路ですから、実際はこのように本物の茶碗にいきなり80度のお湯を入れたわけはなく、その前に、、、しかし、あれは誤解を生む。
あの三つの素材の熱伝導率はあの実験をやらなくても明らか。それを見せたいのであれば、小学校の理科の実験でもこのようにはやらない? あの茶碗でなくてもよい。番組中にどのように放映されるかは、事前にVで見ているだろうに、宗屋って馬鹿だな。なぜ利休が樂に茶碗を作らせたかとは違うでしょ。これでも家元後嗣か?笑

利休のリアリティの凄さは、科学調査をベースにそれ以上のことであると
もっとリアルな実験をして欲しかった。あの限定された茶碗でやるのであったら、ただ湯を入れるだけでなく

  • 茶碗の中と茶碗の外の温度の変化、手で持つまでの変化
  • あの茶碗で、薄茶と濃茶の点前中、各客が口にするまでの変化
  • 正客と末客の違い
  • 室温との関係
  • 銘柄の違いなどなど、どれか一つの実験で、

明らかに当時の茶の湯が(温度や人の感覚に対して)意味深かったかを全く知らない人に分かりやすく。できないのであれば、断る。であろう。結論=売名。

参考:「液体の構造と溶解」など
京都帝国大学理学部卒、堀内宗心宗匠
過去にきちんとやる人はやっている。不用意に茶碗を見せびらかしたり、遊びで茶碗を使用しない。https://www.jstage.jst.go.jp/article/kagakukyouiku/34/3/34_KJ00003482275/_pdf

風炉釜

古天明丸釜(戦国時代)
山口浄雄(名越昌晴の弟子)折紙
胴径6寸3分強・口径3寸1分半 小振
関東作の釜の大元、全然違う。「釜の六音」きれいに。

唐銅面取風炉 小振古銅色
大西浄中 14代清右衛門造 共箱
即中斎若書書付

茶カフキノ記 看雲亭ニ於(己酉1969)

執筆は即中斎、兼中斎のと同じように自筆で箱書きをしている。やはり書きものに花押はない(奉書紙は違う)。思ったより早く願いが叶って家元書付のがあった。しかし、予想と大きく異なった。これもおそらく皆中者の正客*に、お渡ししたのでしょう。春芳堂表具、仕舞い込んでなく、かなり掛けていた痕跡。宗匠に表装していただいた時は、ご本人は相当盛り上がったのであろうに、どうして手放してしまったのだろうか(たとえその後の人が茶をしなくても、家宝だと思うのですが)。
– 㐂三子* 全
– 蓮子
– 文子 全
– まさゑ 全
– 悦子 一
やはり全てが女性。それになんとすごい三人も当てている。この超緊張の茶会で、さぞかし即中斎は素晴らしい笑みを見せたことでしょう(亭主は不明、この場合どなたが茶を点てたのだろうか)。家元の茶カブキは、歴史上に残るのように、今でも内密に全てが謂れがある男性だけの世界でやるのかと想像していた(美化していた)。
また、これは4月21日(利休忌ではない命日)に行われている。この年(回忌年ではないのだが)は茶カブキがとても多い(軸になっているものを他に2幅も見かけている=両方とも兼中斎によるもの/悦子氏は4月12日の蘆庵にもお詰めで)。

流派の結束を説明するときに掲げようと思っている。よく見かける「七事式」の掛物(有名なのは不白)があるが、それは説明に適さない。茶カブキの発祥や復興や本来の深い意味を現在に置き換えて今一度考え直し伝えること。このコロナ禍で以前のような茶カブキは実施が難しくなっていること(内内でやるしかない)。とても重要なポイントだと思う。
それにしてもこのお軸は、昭和の旺盛だった茶道、いや戦後の茶道の存続。今日の茶道を即淡砲で切り開いてモダンの流派を形成した証。
この茶室は謎。「看雲亭」というのはかつて大徳寺に存在していた有名な奇観。どういうことなのだろう。どこなのであろうか。南禅寺(鹿苑寺?)の茶室? 東京の稽古場? 何箇所か同じ名の茶室が存在するようだ。王維の終南別業「行到水窮處行(ゆいてはいたるみずのきわまるところ)、坐看雲起時(ざしてはみるくものおこるとき)」で惺斎の好みに由来するのであろう。

左右逢源

辛巳(1821年)、了々斎筆、百五十遠諱追薦と記してある。江岑好木地丸香合の写しを配りものにした際の色紙。逢源斎の語源だが、道を体得した者があらゆる事物の本質を見取り、自在に対処すること。左右〔そ‐う(もと‐こ?)〕というのは、この場合「かたわらにあること」という意味にも取れるのではないだろうか。稲垣休叟(いながき きゅうそう)書付、江戸後期の茶人。号は竹浪庵・黙々斎。啐啄斎に師事。「茶道の世界では従前より(生誕何年祝より)没後の年忌を大切にし、歴代家元の年忌にあたってはその遺徳を偲んで追善の法要や茶会を行ってまいりました。」(同門2022年1月606号より、元伯が花から鶯へ替えた記事も載っていたけれどw)の規範のもととなるお軸と思う。了々斎の江岑への思いが紙面にとても現れている。今年10月27日はちょうど江岑三百五十年忌。

《离娄章句下》章句八编辑 孟子曰:“君子深造之以道,欲其自得之也。自得之,则居之安;居之安,则资之深;资之深,则取之左右逢其原。

天佑庵

天佑庵茶室は東京府荏原郡目黒町字上目黒(津村順天堂創業者の)津村重舎氏邸にあり、邸はいわゆる目黒丘の一部にして西南に傾斜し、住宅本屋は高部に本席は庭園を隔てて、その低部にあり、もと名古屋の茶家牧野作兵衛翁が天明年間千宗左の邸にありし不審庵を模造したりしを移して、これに八畳客室八畳その次室及四畳半控ノ間等を配して一棟とし邸内に建設したるものとす。
牧野翁が利休好み不審庵を模するや、茶室はもちろん露地一切の現形を実写して、樹木の高低配置に及び、寸分違うことなきを期したりという。大正5(1916)年高橋義雄=箒庵(ほうあん)たまたま名古屋市に滞在中、牧野翁五世の孫作兵衛氏この茶室を譲渡するの意ありと聞き、これを前水戸藩主徳川圀順侯(明公)にすすめてその東京小梅邸(本所区向島小梅町)に移し、その地の旧名にちなみて嬉森庵と命じその扁額を松方海東公にこいしが、その後徳川邸移転の議あるにて及びてこれを上野公園内日本美術協会に移さんとしたるも、当時公園内に木造家屋の建設を許されざりしに依り、終に津村邸移築せしものなりという。しかるに工全く竣りてかの癸亥の大震災あり、小梅邸も美術協会も焼亡したるに、この席の目黒山に移れるばかりに、無事残存するを得たるは、全く天佑(天のたすけ)のしからしむる所なりとて、当初よりこの席の肝煎役たりし高橋氏の狂喜は、終に本籍を天佑庵と銘名するに至れるなりと、茶壇の一佳話として語り継ぐべきなり。
なお、京都なる不審庵は明治39(1906)年に火災にかかり、模造は決してすくなからずといえども、おそらく本籍の古きに及ぶもの非ざるべしという。昭和2(1927)年 川上邦基 記ス
 昭和33(1958)年に現在地である浅草寺伝法院内に移された。

滴(しずく)

優れた茶人は、柄杓の扱いが自然で上手である。武士で言えば刀と最も似ていると感じる。道具というものは究極そういうものなのか。昔の茶人の点前を見てみたい。基本となる二種の量をブレないで、お湯(あるいは水)を汲めて注げることが肝要。扱いや持ち手はどのような時もいくつかの同じかたちの繰り返し。

  • 一杯に汲む=
    茶碗を温める時:
    茶を掃いた茶碗に入れる時:
  • 半分に汲む=
    茶碗を濯ぐ時:
    お仕舞に茶筅を濯ぐ時:
    水指から釜に水を差す時:
    (この場合、合や茶碗の大きさなど適宜。量は未調整)

汲みたい量にする:
柄杓の合が釜のお湯の中にある時に、柄杓の合の傾きで量を決めてしまう。
そのままの傾きのまま柄杓を上げてきて、
柄杓の底が、水面から離れてから、柄杓の合を水平にして上げる*。

滴:
釜から茶碗まで柄杓を移動させている間に、お湯が落ちない様に細心の注意を払う。柄杓の合の底は、凹型になっているので、水面から出た後に合の底面に未だ残っているお湯は、直ぐには合から落ちない。しかし、いずれは必ず一滴は落ちると予測すべき。それがいつなのかを測る。合の底面で一箇所に集まってくるお湯をその汲んだ直後にその場で落とすか、柄杓の移動中畳に落ちる前に、茶碗など移動先の中にお湯を入れるようにするのかその場の判断があらかじめ必要である。
水中で傾けた柄杓のその角度をそのまま変えることなく、柄杓の合の底を水面から上げると、斜めなためお湯の切れが良いはずなので、お湯は残らないで落ちるはずだが、それが一呼吸の間に落ちない場合が困る(*この瞬間)。また合を水面から上げた後、お湯が切れるまでしばらく待つのは作為的でよくない(絶対に振ったり揺らしたりしてはいけない)。何度やっても水面から離れる時の表面張力では完全に露を切ることができない場合がある。

注ぐ:
茶碗にお湯を注ぎ入れる時、茶碗の右側にお湯が垂れて、茶碗をとると畳が濡れているのは恥ずかしい。その原因は、柄杓の底の部分に伝ったお湯が茶碗の右の縁から外に出て、畳に落ちている。
はじめに、お湯を合から茶碗のどこに落とすかを決めて集中して注ぐ。絶対に茶碗の中心にお湯を落とさないようにすること。
茶碗の直径と角度を見る=落とし始めに茶碗の(7,8時位の短針がくる)左側手前の縁に近い所に、落とし終わるまでその位置を動かさないように注ぐ。つまり、寸分の狂いとブレは禁物。

炭道具・灰道具の記号

兜巾頭の火箸
鳥頭、菊頭、桐実頭、渦頭、丁呂木頭、椎実頭、宝珠頭、瓢頭、大角豆頭から選んで火筋として使うのだが、どれも好みではない。ぼくのは烏天狗には付き物、頭襟(ときん)、山伏がかぶる小さな六角帽子の形。十二因縁(鳩摩羅什訳)、十二縁起・十二有支(玄奘訳)にちなんでおり、「支分は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死、これら無明暗黒の煩悩だが、悟りに達すれば空(emptiness)になり、不動明王の頭頂にある蓮華のように清浄である」という意味。現実の苦悩の根源を断つという仏教の基本的な考えのひとつ。

蓮の灰匙
利休型なのだが、匙部に蓮華文が板金の打ち出し仕上げになっている珍しいもの。古い仏具のよう。意味的には日常で用いられる陶製匙の散蓮華(ちりれんげ)と同じく、自然で本当に美しい蓮の花から散った花弁に見立てている。仏教で重要とされているのが、煩悩に穢されることのない清浄な仏の心をあらわす「白蓮華」と、仏の大悲(だいひ)から生じる救済の働きを意味する「紅蓮華」。泥に染まらず清らかで美しい蓮華は、仏典では清浄な姿を仏にも例える。また漢訳三本の妙法蓮華経は「白蓮華のように正しい教えを説く経」という意で経題に用いられている。蓮は7月中旬から8月中旬位にかけて開花し、近所の上野不忍池が名所というのも何かの縁である。

うちはこの二つの火道具によって、より一層清められる。