北海道大学大学院教授 櫻井義秀
…そして何よりもこの団体の特徴は、政治宗教なのです。 …(しんぶん赤旗)
日本の将来を壊す正確にすべき宗教ではない概念。
AERA 1930号
p.7のWeaponization「武器化」が日常用語化しないことを祈る:
同意見。辞書に載らないことを祈る。存在しなくてよい言葉。ある国が正統を主張し武器が欲しい武器が欲しいと言い出して、長引いて、多くの人が死んで、すべてを破壊し、、、武器を作っている国の経済が促進し世界を狂わす。平和の方向に誰かが向けていないと。
55th Japan Book Design Awards/reviews
昨日冊子にて、審査員の方々から的確なお言葉をいただきました。とてもうれしかったので、印象に残ったお言葉を:
【濱崎実幸氏評】
「四六判としては不相応な小口の余白の確保を可能にしている。」
機能としての本をかなり追求してました。
「本文の意匠はストイックに抑制されていて、罫線一本引くのにも注意が払われている。」
私たちの流派の技の一つです。
「書体の選択と行間、余白だけでデザインした潔さがよい。」
タイポグラフィの基本です。文字のサイズが小さくても、、、
「このコンクールで色上質の見返しはなかなかお目にかからない。」
そうですね。デザイナーはほとんど積極的に使用しない紙です。笑
「お金をかけていない。使う人の立場になり外連がない、」
高価な紙や奇抜な流行紙でデザインをしたというごまかしは好みではありません。
「この判型では悪目立ちするリボンの栞はご愛嬌か。」
我慢はしていませんが、意識して栞を使用していただきたいという願いが込められております。それと銀色、幅(約8p二倍)で金属活字を意味しております。
【中江有里氏評】
「端正な存在感があった。」
そう感じていただけ幸せです。
「箱から出すとしっとりひんやりとした表紙があらわれ、ページをめくるとタイポグラフィの世界が広がり」
映画のように。
「仕事上必要でなくても、手元に置いて時折ページをめくって眺めていたくなる。」
まさしくです。
【岩瀬学氏評】
「サイズも仕様もすべて日常で使用してもらう事を前提とした選定で、それは一貫している。」
はい、普段使いのデザインです。
「使い勝手から四六判という小さいサイズを採用しているが、それが不利にならないようにレイアウトにも配慮しケースの素材選びからも華美にならず、それでいて良質さも兼ね備えたデザインになっている。」
まさしくです。
御三方、貴重な評をどうもありがとうございました。
令和4年9月号 同門
4ページにA氏について載っている。K氏の頃から、、、なるほどと思う。世に対する姿勢が利休や元伯宗旦の頃の真逆なのだと感じた。先日まで紀州徳川家のことが連載されていたと思ったら、全く矛盾した昨今である。即中斎(最後の家元)が現代化(革命)していなければ、ぼくのような人は茶の湯を嗜むことはできなかった。深く知るにつれ、益々ぼくは而妙斎、猶有斎の時代の茶の湯には親しめないということであろう(両家元の道具と軸はひとつもない)。バーゼル派や琳派のように流派には終わりがある(例え、館が現存していても、目に見えない人の精神なのだ)。
「同門」という冊子のタイトル文字は即中斎筆である。このことがすべてを物語っている。
付記:数寄屋の棟梁 笛吹嘉一郎が戦後の宰相の好みに応じ創意と技を注ぎこんだ貴重な茶室「箕山居」。東京K氏邸(南平台町?)にて昭和33年完成の建物を、昭和47年に山口市泉都町へ移築。https://www.ymg-takken.or.jp/property/detail?p_no=000001455602
抹消
初めて、土地家屋調査士に依頼して、土地の合筆ということをした。偶然うまくいったのだが、この登記をすることによって地番の若い方の書類上の記述が残ることになり、後の番号の所有権に関する事項の履歴が「閉鎖事項証明書」が発行されることにより、書類として存在しなくなる。つまり、うちの土地の歴史から完全に「軽視」の名前が消えた瞬間だった。実にめでたいこと。
三伏日
昨日、末伏8月15日でした。今日も猛暑日、やはり傳衣筆の瀧の墨画。母と茶を一服。今年も貞祥寺には行けず。
飯尾の和歌
とうとう書の源流。これが本当だったら、このお軸の経緯は実に興味深い。雨華庵にあったのか? その後、所持していたのは一笑庵旧蔵の証が木箱の表題紙にあるように、その茶室の主人か?:
高田太郎庵(1683–1763)で尾張名古屋の茶人。宗和流の茶を学び、表千家六代千宗左の門人として表流の茶の湯を広めた。この宗匠が焼いた茶碗「鈍太郎*」をくじで引きで当て太郎庵*と号した(おもしろい話)。今でも「太郎庵椿」が地元熱田神宮で有名。
元々、この表題紙にある「一笑庵」は古田織部作の茶室を譲り受けて高田太郎庵が自邸に構え、晩年には希少な古筆の名物切を数多く蒐集して、すぐれた審美眼の持ち主でもあった。この人の所蔵であったのであろうか?(箱は相当古いが、一笑庵の貼紙はそこまでは古くはなさそう、但しその反対側に古い外題が)
その後を辿ると、興味深いのは、徳川美術館の岡谷コレクション――岡谷家は、江戸時代から続く名古屋有数の商家。1669年、初代岡谷總助宗治が名古屋城下に創業した打刃物商「笹屋」を発祥とし、九代岡谷惣助(1851–1927)は、愛知銀行や岡谷鋼機株式会社の設立者。この代までは茶人ではないのか、、、1923年、益田鈍翁*を迎えて開かれた敬和会は、十代岡谷惣助(1887–1965)を席主に茶室「一笑庵」で行われている。この近代の数寄者たちの賞玩の一端に触れることができる点から、なぜ岡谷コレクションではなかったのか? どの代で外れたのか? 贋作か? ここまで話を作るか? 興味深い。
飯尾常房(いいのお つねふさ/1422–1485)室町時代の武将、書家。阿波の守護細川成之に仕え、将軍足利義政の右筆(ゆうひつ)を務める。仏教に通じ、和歌を尭孝(ぎょうこう)に学ぶ。また尊円流(そんえんりゅう=尊円法親王が興した書流)の書を修め、和様の書風のひとつ飯尾流を創始した。このような経緯から、雨華庵に所蔵されていたのだろうか、火災前に持ち出されて残ったのか? あるいはその前か?
[wikiより:]尊円流にはとくに傑出した能書家はいない(一休宗純が茶道用の掛物として当流を使用しているのが、僅かに目立つのみ)、しかし、別名御家流(おいえりゅう)**とも呼ばれ、武家の公式文書は多く御家流草書で書かれたため普及した。寺子屋などで学ぶ教科書でも御家流が用いられていたことから庶民に普及し、明治時代に活字文化が普及するまでは日本の標準書体であった。そのため、江戸時代以前の古文書を読むには、御家流のくずし字を学ぶことが必須となっている。
短冊の和歌よみ
「刈り残す 真菰乱れて 吹きぬめ(け)る
御津の御牧の 秋の初風 常房」かなのとても美しい書。
黒楽茶碗 銘「鈍太郎*」表千家6代覚々斎原叟宗左(1678–1730)が、享保6年(1721)に江岑宗左五十年忌に作った一碗で、益田鈍翁*は明治40年(1907)に入手した。翌年品川御殿山の本邸(碧雲台)に茶室「太郎庵*」を建て、還暦自祝の茶会を披き、この茶碗銘に因んで「鈍翁」と号するようになったいう茶碗。
句は是のみ覚てをれり。【遊芸何も不為】和歌を蓮阿に学び、御家流の書をよくして**弟子数多あり。養子心水子に家を譲り別宅し、剃髪して蘇平と改む〈「鶯邨君」が酒井抱一〉
三菱地所パークスパーク東日暮里5丁目第2 開業
今朝から、軽視さんが住んでいた家の公道に面した部分の土地が全く姿を変えて、皆さんのお役に立てることになりました。祝!思えばここまで半年以上苦しみました。やっと辿り着いた感じです。一ヶ月以上かけたコインパーキング業者6社のコンペの結果、三菱地所パークスに決定し、2台並列で随時駐車できます。奮ってご活用ください。先日、都立竹台高校新築の担当の都の担当者が見えて、使用したいと言っていたので、かなりの時間この関係車が停めて占めてしまうのではないかと予想していますが。
もちろん、音無川文庫を利用される方方のために計画したことなのですがw
離レのリノベはほぼ完成しているのですが、5月末日、施工途中で工務店が引き揚げてしまって、細部の詰めを決めかねているせいで、また残った家屋や土地をよく観察しつつ。その後、よくわかったこと。これだけの土地の中でほんのわずかなスペースに住んでいたのだなぁ。そして、まず駐車場にするため砕石をレベルを上げるために敷きました。その時に明らかになったのですが、床があった高さがかなり低ったので普通の人ではいられない状態だったのではないかと。雨が降れば、水が家の下にいつも数日間は水が溜まっていた。よくこのような状況で。また、軽視はレイシストだったことも明らかに。不自然な位置に不自然なものが!隣人の在日を最後まで苦しめていたに違いない。もう、その痕跡は完全に跡形も残っていない。
抱一の写し
久しぶりに、落札の最後まで萎えなかった。とても楽しく相当長い時間一対一が続いた。最後の相手は76,682回も落札している強者。こちらはオフクロと「この秋草(ミズヒキとヨメナ)の絵いいね〜」とか言いながら、ゆる〜〜〜く対戦。それにしてもこの人はおもしろい、残り2分22秒になると必ず上げてくる。「きっとまたくるよ〜〜」、、、このやり方で7万回も落としたのか!へ〜ヘビーコレクター。笑
ところで、このお軸はインターネットオークションの大半、いわゆる贋作の一つ。つまり落款がある当該作家の真筆の作品ではない。しかし大切なことはこの絵は、おじいちゃんやおやじの時代に通じる「写し」を堂々と証明している。その作品を模写することを通じてコツコツと技能を学ぶ。昔の美術家や職人は同じことをしていたというのだ。なのでコレは証としてどうしても手元に。普通は、(ほとんどの)一見して分かりきっている贋作や抱一の絵を弟子やその後の琳派が書いていないものは買わないでしょう!しかし、そこが実に興味深い。四条派の西山完瑛が(1889年に)描いたとわかっているからです。
播州明石藩に仕えた絵師が酒井抱一の写しをしたという事実がこの絵から知ることができるのです。抱一の写しでこれほど説明を絵に丁寧に書き込んで自らの落款まであるものは滅多にない。しかも明治時代の大阪を代表する須磨対水(完瑛の父芳園から学んでいる)の箱極書き(庚申1920年夏)と上巻絹に外題もということは、そこまで入念に。普通の写しではなくそれなりの理由が、もしかして本歌は吉兆に? ぜひ探し出して比べてみたい。
その他、絵には「上六寸七歩」「左七歩」「右一寸四歩」とアキの寸法が小さく書き込まれている。そして肝心の抱一の落款まで見事に写している。鶯村の印影が間伸びしているのは愛嬌。
とにかく、明治時代に大阪で江戸琳派の模写が堂々とされていたのだ。これは傑作だ。
the fourth dose
COVID-19 Vaccine Moderna Intramuscular spikevax Injection
Lot.000198A: two of us