ぼくが日本にいない間に社会に、現れたもの。
また、池田さんの書き込み(eco-plazaのMLから)。
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先週、この稿で、日本人の行動原理は同情ではないか、といった内容のことを書きました。派遣村にあつまるリストラ難民たちに同情することで、
人は緊急支援の活動をはじめるのではと憶測しました。しかし、その後、考えが変わりました。ここで用いた「同情」という言葉を撤回したくなりました。派遣村の現実に向けられる人々のこころの動きは、「同情」というよりも「同調」だったのではないのかと。「同調」におけるこころの動きを「感情移入」といいます。派遣村の現実は、人々が容易に感情移入できる対象です。他人事とは思えないという気持や、明日は我が身という切迫感です。派遣村というひとつの集約された場ができたことで、さらに感情移入がしやすくなりました。「同調」とは、その対象にチャンネルを合わせることです。事実、テレビのどのチャンネルを回しても派遣村の映像に出くわしました。
テレビは人々の感情移入をひきだし、「同調させる=チャンネルを合わせる」メディアです。
それにたいして、「同情」とは本来、もっと高度な感情の表現形態ではなかったかと思うようになりました。
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(中略) 社会を変えよう。社会変革(ソーシャルイノベーション)を起こそう。それはいまや世界的な潮流となり、ソーシャルを合言葉にすることは、クリエイターたちや流行に敏感な若者たちのトレンドになっています。自分たちの手でこの世界をよりよい社会につくりかえる。それに生きがいや喜びを見出す人たちが増えていることは、まことに好ましい限りです。
しかし、よりよい社会をつくることだけが人間のゴールではありません。
どれだけ理想的に再生可能エネルギーが循環する社会の仕組みをつくりあげたとしても、どんなに申し分なく持続可能なライフスタイルが広く実践されるようになったとしても、それが人間の自由と尊厳を保障するわけではありません。そのネガティブな認識を倫理と呼ぶべきなのではないでしょうか。(中略)
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——同じ人間なんだから。
困っている人が同じ人間なら、困ったことをしてしまった人も同じ人間。
一瞬でも、感情移入の同調回路を断って、社会の外側に立って、すべての人はみんな同じ人間であることに思いを馳せる。その「同情」感覚が身につくことも、社会変革の志を育むことと同じくらい大事な環境学習の役割ではないでしょうか。
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この文章また同感です!
ちょうど、うちのお教室の人たちに年頭お話していたことに似ていて、
「勝ち組、負け組」のことも。こんな言葉日本人にはなかった。。。
ちょっとちがうかな?恐ろしい大きな流れに流されてしまっているのではないでしょうか。だから、、、
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単に表面上だけのアンフェアな競争社会をつくりだしているのではないでしょうか。日本には歴史が培ってきた独自のいろいろな社会の仕組みがあって、それをこわしつづけている。
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大江さんが新年の言葉で「人間がやっていることなのだから、解決しないことはない」といっておられた。それには前提がいるのではないでしょうか?will=意志と訳していました。
outgrow=成長(Auden)
upstanding=自立(Yeats)
今年、もう一度見直すことにしましょう!!!