心に余裕がある人の特徴

・優先順位が明確
・自己肯定感が高い
・先を見通して準備する
・穏やかで落ち着いた言動
・冷静に判断する力がある
・誰に対しても謙虚な姿勢
・周囲と自分を比較しない
・視野が広く周囲への気配りができる
 もしもの場合に備えて準備をしている人は心に余裕がある。

すばらしい。この通りだと思う。
今朝、SNSを見たら偶然載っていた。最近は、ほんとに各SNSを見ないよう、載せないようにしている。
FBはタイムラインにその時出たアタマの五個ぐらいを一瞬見る程度。TWはほとんど見ない。
FBは何年か前に載せた写真が懐かしい場合だけシェアする。でTWはほとんどツイートしない、利休百首でその時全く同意したのだけリツイートするぐらい。とにかく真剣にやっていない。本当にバカらしい。こんなものに時間を費やすなんて貴重な人生自体を無駄にしている。はっきり言って、他人が何をしてようと関係ない。そんなもの見ているから、ひがんだり、しっとする。人間は弱いものということを知るべき。とにかく自分をより以上に律すること。

尽十方無㝵光

隣の新館予定建屋(実は大ボロ屋)に初めて踏み入れた記念日に。A~NAMDA~

じっぽうをつくして ひかりえることなし 十字名号から前二字後二字計四字省略、つまり六字名号(ろくじみょうごう)「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」となる。本来は「帰命尽十方無礙光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」の十字。
帰命は身を投げ出して仏の教えに従うこと。語尾の光如来は煩悩の闇を照らす永遠の光明である阿弥陀如来の徳をあらわしたもの。したがって南無阿弥陀仏=「阿弥陀仏に南無したてまつります」ということ。正法眼蔵(1231-53)「この十方、無尽なるがゆゑに、尽十方なり」ありとあらゆる方を尽くした世界に何物にもさまたげられない光。老師の書は「碍」いしへん 㝵=「日」「ー」「寸」、「礙(さまたげる)」の異体字。石が省かれている「むげこう」は、なぜなのだろう。

父元治はじめ、ご先祖全てが居る長野県佐久市の貞祥寺に関わり深い沙門泰仙老師。弟子丸泰雄は澤木興道に18歳で佐賀で出会い、禅を実践するよう勧められ、51歳1965年沢木興道師より京都安泰寺で出家得度を受け、最後の弟子「黙堂泰仙」を授与され、正式に弟子丸泰仙となる。この頃、桜沢如一というヨーロッパで自然食を普及しながら、東洋哲学を説いていた人と知り合ったらしい。フランス風典座につながる。1966年夏、来日した80人程のヨーロッパの人々に貞祥寺で坐禅の指導した(その頃、清久寺住職に?)。そしてちょうど一年後シベリア鉄道でフランスに渡り、思想家などと交流を持ち、多くの人々が彼の教えを受けた。現地では、おそらく布教や僧侶としての仕事、執筆、多忙だった。故におそらく墨跡は少なく、唐紙に筆を落とすことも少なかったと想像する。1969年モンパルナスの駅前に新道場を開設し、ここを本部とする「ヨーロッパ禅仏教協会」を設立。1970年巴里山佛国禅寺を創立。その後、ヨーロッパ各国に開教道場63カ所開設、Zürichの道場もその一つ。今でも貞祥寺の禅修に多くの孫弟子たちが各国から訪れる。墓所は同寺にあり、母もぼくも先祖と一緒にここの墓地に眠る予定。
仏掛はヨーロッパには存在するMonikaさん所有の「福寿無量」だけ? 日本にあるのは極端に若書あるいは歿直前か(この書付は筆の運びから後者)。本当に老師の掛軸は見つからない。おそらく数がとても少ない上、国内では不明なことが多い。
誠信書房『正法眼藏現成公案解釈』『正法眼藏摩訶般若波羅蜜解釈』を執筆。時々読んでいる座右の書。

http://kyoto-morita.org/wp/new-blog/2016/07/08/京都森田療法研究所のブログで解説されたストラスブールの禅仏教センターの案内冊子に掲載されたフランスに禅(曹洞宗)を広めた僧侶、弟子丸泰仙禅師の写真と「無げ光」の書。

國華

引用:『國華』は1889年(明治22年)10月に日本の優れた美術品を広く知らしめるため、岡倉天心、高橋健三、フェノロサらにより創刊された美術雑誌である。現存する美術誌としては我が国最古、世界でも2番目に古い歴史を持ち、現在は朝日新聞社 https://publications.asahi.com/original/zasshi/kokka/seiwakai/ が発行している。
 日本が所蔵する優れた美術品(日本美術と東洋美術)を木版および写真版によって忠実に再現した複製版画を一、二点掲載し、日本のみならず欧米諸国に広く紹介した。学術雑誌として世界に高く評価され東洋美術研究には必須の資料であり、海外の大学、博物館、美術館、美術史研究者らが活用している。
 國華創刊当時のヨーロッパは熱狂的な日本ブームで浮世絵等の木版画の需要が高まり一時衰勢していた版元界は勢いを取り戻し200数軒の版元が昼夜を問わず仕事に打ち込み木版画の隆盛期であった。江戸時代から培われてきた木版画の技術はますます進歩し制約の多かった江戸と違って明治政府の援助も受け木版画史上最高とも言える技術と高価な良質の紙、絵具をふんだんに使って作られた。神業的な技術を待った職人達の手により絵肌の質感、古色や保存状態までもが緻密に再現され、版木が60、摺り数が100を越すとも言われる気の遠くなるような作業であった。その美しい精巧な日本固有の色摺木版画は発行部数も少ない(約200~500部)ため入手困難で、貴重な資料であると同時に貴重な美術品であり、これら贅沢な図版として掲載された世界に類を見ない極致、極限の木版画である。またその他、玻璃版(コロタイプ)の技術も一部併用された。
 https://www.akanegarou.com/profile/kokka.html
興味を持ったのは、岡倉天心が存命中明治39年に発行された:
木版彫師=新部寛次郎
摺師=和田藤吉
薄葉紙解説:
印刷人=野村宗十郎 
印刷所=東京築地活版製造所
発行人=村山旬吾 
尾形乾山作 桔梗絵茶碗(すごく琳派らしい!)
現在国立博物館蔵なのか行方不明、この美しい下谷乾山?の茶碗、もし存在するなら実物を拝見したい。しかし前にも意見を載せたように乾山に絵がどう見ても似付かない茶碗は論外(調べても確かな真作茶碗は多くはなく、こんなにもの種類の「乾山写」茶碗があるのは本当に不思議)。派手な変な絵茶碗よりこの版画の方が謎で趣があり魅力的、これを掲げておいしい茶をいただきたい。

工芸幅

千利休筆「茶道具注文黒印の文」
昭和40年代に盛んに作られた復刻版茶掛のひとつ。発行は講談社、大塚工芸社が制作、当時限定販売されたものでよくできている。以前から興味があった消息(単純な目的、内容、伝達)。昭和46年当時、富山の瀬川宗親氏所蔵の複製:

 注文
一 棗 一ケ
一 小板 一ケ
一 袱紗物 一ケ
一 茶巾 五ケ
一 茶巾洗(茶巾盥) 一ケ
一 面桶(曲建水) 一ケ
一 柄杓 一ケ     以上
 (右の)道具ども、(近江)大津の我ら宿へ届けられ候て給うべく候。
以上、七色にて候。正月二十六日 利休(オケラ判ではなく署名)【おそらく天正14年の消息/5年後殁】
 と黒印「易」(当時三通しかこの印文は発見されていなかったもよう)
(詳細不明の茶友)道哥まいる

名物道具を伴わない急の侘茶事にふさわしいお軸。複製なので気軽にいつでも誰でも知っている利休をかけられる(利休と書いてあるのが誰でも読める)!持ち出す時期は正月の後と合わせるのか、やはり利休忌がいいのか? いや、これは自由。普段使いの機能として茶一服のお招きに使えるので重宝。
第一印象は、茶巾五枚がとてもいい。大久保先生を思い出す「小泉くん、茶巾はとにかく白、清潔清潔」。
しかし、なぜこの7点なのか、この順なのか。謎が残る究極の茶掛。

大願成就!

この日を、母と(そしてご先祖さまたちと)指折り数えていました。

借地権に勝った。隣が退去!荒川区教育委員会の方の初の訪問と入れ替えをするように。記念すべき開城の朝。

ひとまず、この瞬間からこの地に本当の 平和 が。詳細は正式な引渡し日に!!

とにかく、玄関と入口、窓、全てに、塩を撒いた。

乾山写

箱書には「乾山写」とか「仁清写」がよくあります。とにかく数多ありますが、似ても似つかないというか、完全に解釈を間違えているものがあります。時には、確かに真作で存在する絵柄というかモチーフをやりすぎてビックリというもの見受けられます。最近、琳派と江戸琳派、調べているととても興味深い作品を見つけることができます。そこに解釈が生まれるのです。
もともと、茶の湯に乾山と仁清は深い関係がありますが、いつの間にか茶の湯の有名な作家たちが写しとして使用し、道具を売るためにとなんとなく合体してしまって、同じ仲間になっています。とても問題です。どんなに有名でも乾山や仁清は茶道の家元にはなれません。いや、彼らは時のものづくりであって、家元になる気はありませんでした。日本の芸術であって、流儀の開拓者です。絵柄の山も川も、野の草花も、美を追求した手段なのです。
「うつし」と「まね」は違います。かえって「写」と箱書などでうたっていなくても、使用する茶人が、写しや好みと解釈して、特定の客のもてなしでそう思ったものを使用し、その時の道具の由緒でそのように紹介する方が正しいと思います。という理由から箱書の「写」は信じてよいのか分からないといってよい。なので、ぼくはすすんで手元におきません。

正倉院の

正倉院の書蹟 1964
正倉院のガラス 1965
正倉院の楽器 1967
正倉院の絵画 1968
正倉院の紙 1970
正倉院の陶器 1971
正倉院の羅 1971
正倉院の刀剣 1974
正倉院の金工 1976
正倉院の木工 1978

宮内庁蔵版 正倉院事務所編 日本経済新聞社刊
ちょっと聞かれたので、、、懐かしい。
断捨離で、すべてとっくに手元にないが。いい本だった。

「コロナ前」「コロナ後」

ここのところ感染者が極端に減っている。こう言える日がきたのか。そうなることを願う。
[ 戦前には、両親をはじめ大人たちが過去のを語る時、「震災前」「震災後」という言葉を口にした。東京に住んでいる者たちは、大正12年9月1日の関東大震災を時間の大きな節目にしていた。それが私たちの世代になると、大東亜戦争と称された戦争が敗戦によって終結した昭和20年8月15日がそれに相当し、「戦前」「戦後」という言葉を使う。…] 吉村昭『東京の下町』p.220

おかえりモネ

とうとう最終回が終わってしまいました(ロス百音)。当初、母と見出した時はこのような気に留めるドラマになるとは、正直思っていませんでした。震災にあった人で同種の心に傷を負った者でなければ、理解できないかもしれない部分が多く含まれていることに驚いています。それにしても、よくこのように毎日何かしら引っかかるように朝ドラに仕立て上げたものと絶賛したいです。数年前に三陸の若い海女さんのドラマもありましたが、同じように東北の被災をテーマにしていたのに比較にならないほどの出来だと思います(話題だけで、あまりにくだらないので見ていませんでしたが)。
実際ぼくの場合は、この主人公モネとは逆のローケーションなので、また違った複雑な内面の部分があると思いますが、とても興味深いです。
1.
住人として被災しているが、他の人と違って、偶然その時にその場にいなかった。=同じ被災者でも完全に線引きされます。後で、駆けつけたが、明らかに周囲の人とは違う(差別を受けました)。
2.
ぼくの場合は、その時以降、上司からパワハラを受け続けます。そのような中、当時の「市民大学の責任者」でうちの大学の代表でした。市役所の(災害後なので廃案にするつもりでいた)担当者と市内にある他の二大学の担当者と尽力して、なんとか続けることができました。「何か被災者のために現地(ぼくも住人の一人と思っていましたが、そうではない)でできないか」を探していた毎日。
3.
最終的には、退いて同じように故郷に戻ろうと決心します。ぼくの場合はモネとは逆に東京に。創設に参加した大学を後に。しかし裏切り者扱いを受ける。
4.
そして、本題:教師と現場の話。ぼくは地震と同時に教室で教えていたわけではないので、家族と比較はしませんでしたがしかし、被災地での教員は実にきつい。正直逃げ出したくなる。被災後じわじわと、違った意味で現れてくる恐ろしさ。誰にも話せない。

今となっては、大学で教えていたことは遠い昔のことで、今の自分の生活と切り離しているつもりでいたが、そうではないとまた再び再確認し、いろいろと気づかされた。あの経験がその後の人生でいろいろな意味でよかったのだと信じるしかない。放送されていた毎回、忘れかけていた懐かしい細かい心の動きを感じることができて、とても有意義な半年でした。「おかえりモネ」に多謝。それと気象に関わるという職業の不確定さも相まって興味深かった。俳優も全ての方がとても良かった。ぼくが朝ドラでこのように感じたのは本当に初めて。