虚舟

心に何のわだかまりもないこと。「義寅」印「見東海」の落款か?、おそらく(山つらねる長生画す)だと思うのだが、全く不明の禅語。そういえば「山是山水是水」の時期だが、「山」がとてもいい書。珍しく大徳寺にしてはとても柔らかい漢字。こういう優しいお坊さんにお会いしたい。理由なく、どこか気に入ってる。
やはり、なんとなく著名でない僧の書に惹かれ出している。文字のストロークから精神を感じとることだけに集中したい。要は書家の商業的で芸術の書の正反対。非心義覚や無学宗衍と同時代、啐啄斎の頃。

法嗣:
江雪宗立【181】
質休宗文【239】
大庵宗篤【299】
寛溪宗宏【359】
建宗義寅【393】
直道宗淨【425】
ということの意味するところ。

紫林絶学道人

これこそ、細物にて姿良し。さらっと書いて、真下中心に落款、とてもいい書。
絶学無為閑道人(ぜつがくむいのかんどうにん)、永嘉玄覚(675–713)の『証道歌』の劈頭に出てくる有名な禅語。
「高捲昑中箔 濃煎睡後茶」とは、おそらく茶による心の解放という意味だと思うが、禅における睡眠欲、煩悩がなくなることか。坐禅中の眠気を茶が覚醒させる。この真意を解く言葉なのか。「喫茶去」「喫茶喫飯」とかでは、話が深まらない。『禅林句集』の謎に迫ることも。白居易は何者なのかも。悦叟妙怡【457】の草書は見たことがない。印だけでは贋作かも。しかし理由なく、どこか気に入ってる。

宗鑑書「初祖菩薩達磨大師」

近江国栗太郡志那村に生まれ、志那弥三郎範重といい、幼少時より室町幕府足利義尚に仕え(祐筆とも)、一休禅師とも親しく、能書家として知られている。書風は尊円流の素眼である尭孝の流れを汲み、時に粗略と思われるほど荒削りで自由奔放な筆運びで後に「宗鑑流」と認められる書体系を確立した。筆耕や油筒売りを生活の糧としていたと伝わる。義尚が鈎の陣で没し、後世の無常を感じ出家した(1489年)。その後山崎に「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。[wikiより]
初祖は号で、達磨禅師のこと。肖像画や略姿の掛軸が多いが、江戸初期の茶会記の多くは書。なぜか菩薩を略した黄檗の僧の六字一行が多い。

千里同風

出典『景徳傳燈録』。遥か彼方まで同じ風が吹くの意から、よく治まった世の中、乱れた世の中、というようにその全体の同様を表す。仏教で風とは教えであり、時空を超えてどこにいようともかわらないという意。おそらく1950年庚寅に扇面に記されたものを(秋田の?)所有の方が個人的に表装されたよう。なので共箱なし。即中斎の十八番の禅語? しかしあまりお軸現物は見かけたことがない。どうしてなんだろう? 「千」の書き方は2種類あり。1937年36歳で家元を継ぎ、1949年財団法人不審庵を設立。その頃の書、花押の上に「不審」とある。
容易に目にできるものとしては、1975年、法人設立記念大会記録集は記念茶会および講演会を収録した『千里』と茶の湯美術展の大要を収録した『同風』という刊行物。その書籍セットの帙の題箋の書よりも若々しい。とてもいい。白紙の手紙を思わせる。
おそらく扇の骨数は五間。蝙蝠(かわほり)左右の寸法がうまく合わないことから、左右を切り取ってバランスよく配した感がある。風、すなわち扇面に最適と言える。

尽十方無㝵光

隣の新館予定建屋(実は大ボロ屋)に初めて踏み入れた記念日に。A~NAMDA~

じっぽうをつくして ひかりえることなし 十字名号から前二字後二字計四字省略、つまり六字名号(ろくじみょうごう)「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」となる。本来は「帰命尽十方無礙光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」の十字。
帰命は身を投げ出して仏の教えに従うこと。語尾の光如来は煩悩の闇を照らす永遠の光明である阿弥陀如来の徳をあらわしたもの。したがって南無阿弥陀仏=「阿弥陀仏に南無したてまつります」ということ。正法眼蔵(1231-53)「この十方、無尽なるがゆゑに、尽十方なり」ありとあらゆる方を尽くした世界に何物にもさまたげられない光。老師の書は「碍」いしへん 㝵=「日」「ー」「寸」、「礙(さまたげる)」の異体字。石が省かれている「むげこう」は、なぜなのだろう。

父元治はじめ、ご先祖全てが居る長野県佐久市の貞祥寺に関わり深い沙門泰仙老師。弟子丸泰雄は澤木興道に18歳で佐賀で出会い、禅を実践するよう勧められ、51歳1965年沢木興道師より京都安泰寺で出家得度を受け、最後の弟子「黙堂泰仙」を授与され、正式に弟子丸泰仙となる。この頃、桜沢如一というヨーロッパで自然食を普及しながら、東洋哲学を説いていた人と知り合ったらしい。フランス風典座につながる。1966年夏、来日した80人程のヨーロッパの人々に貞祥寺で坐禅の指導した(その頃、清久寺住職に?)。そしてちょうど一年後シベリア鉄道でフランスに渡り、思想家などと交流を持ち、多くの人々が彼の教えを受けた。現地では、おそらく布教や僧侶としての仕事、執筆、多忙だった。故におそらく墨跡は少なく、唐紙に筆を落とすことも少なかったと想像する。1969年モンパルナスの駅前に新道場を開設し、ここを本部とする「ヨーロッパ禅仏教協会」を設立。1970年巴里山佛国禅寺を創立。その後、ヨーロッパ各国に開教道場63カ所開設、Zürichの道場もその一つ。今でも貞祥寺の禅修に多くの孫弟子たちが各国から訪れる。墓所は同寺にあり、母もぼくも先祖と一緒にここの墓地に眠る予定。
仏掛はヨーロッパには存在するMonikaさん所有の「福寿無量」だけ?ひょっとすると禅道尼苑に部屋あった「天上天下当処永平」も? 日本にあるのは極端に若書あるいは歿直前か(この書付は筆の運びから後者)。本当に老師の掛軸は見つからない。おそらく数がとても少ない上、国内では不明なことが多い。
誠信書房『正法眼藏現成公案解釈』『正法眼藏摩訶般若波羅蜜解釈』を執筆。時々読んでいる座右の書。

http://kyoto-morita.org/wp/new-blog/2016/07/08/京都森田療法研究所のブログで解説されたストラスブールの禅仏教センターの案内冊子に掲載されたフランスに禅(曹洞宗)を広めた僧侶、弟子丸泰仙禅師の写真と「無げ光」の書。

https://kanagawa-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=12600&item_no=1&page_id=13&block_id=21

露堂々

ろどうどう、とうとうこのお軸を掲げるときが来ました。ちょうど本日、長年かかっていた本の第2版が堂々!
「明歴々露堂々(れきれきとあきらかに、どうどうとあらわる)」の下句。圜悟語録の僧問「明歴歴露堂堂。因什麼乾坤收不得。師云。金剛手裏八稜棒」からですが、この立派な筆の書き手の詳細が不明。通常は六字なのだか三字で唐紙一杯に強烈。
同時代の宗匠、即中斎無盡宗左ですが1936年に兄不信斎宗員を亡くし、その翌年に父敬翁宗左も亡くなったため1937年に表千家十三代家元を継ぐことになる。「即中斎」という号は、兄が亡くなった年に大徳寺489世/晦巌大楳より?他説は大徳寺501世/天彗義正より?この僧は参禅の師である(同時に授かるものなのか?)。太田常正の書は決まった有名な言葉が多く「萬々歳」「雪月花」とか「天地一家春」「常行一直心」がほとんど、やはり師家。

方丈

「正統の茶室の広さは四畳半で維摩の経文の一節によって定められている。その興味ある著作において、馥柯羅摩訶秩多(びからまかちった)は文珠師利菩薩と84,000の仏陀の弟子をこの狭い室に迎えている。」茶の本 岡倉覚三

この一文では理解しにくいので:
「ほうじょうさん」と呼び親しんでるお寺の主管者のことを住持職。ふだん住職と呼び、そしてふだんいる居室を「方丈」という。維摩経(ゆいまきょう)に出てくる主人公、維摩居士(ゆいまこじ)は一般人のようにしながらもほとけの眼を開いた聖者であり、だれも維摩(ゆいま)にまさる問答を得なかった。その開眼の維摩の居室も一丈(約3m)四方の方丈であった。維摩居士と唯一対等に問答をした文殊菩薩(もんじゅぼさつ)との場面:

歩いていると止まっている
起きていると寝ている
甘いと辛い
あなたとわたし、そして
生まれることと滅すること(生滅)*
よごれていることときれいなこと(垢浄)
好ましいものと好ましくないこと(善不善)
煩悩のあることと煩悩のないもの(有漏無漏)
智恵のない世界にいることと智恵のある世界にいること(世間出世間)
我があることと我というものなど無いということ(我無我)
生まれ死に生まれ死にをくりかえす輪廻の世界にいることと智恵を得てくりかえしの世界から脱したやすらぎとさとりの境地にいくこと(生死涅槃)
眼耳鼻舌身意にまどわされていることと惑わされるものがないこと(煩悩菩提)*

*本来の性質(本性)を観察したならば、迷いも苦しみも真理の会得(悟り)も生まれることもなく、滅することもない。これらは普通の感覚でみれば反対のもの、別のものになる。でも真理に立ち返れば、それらは全て分けられるものでなくなる般若心経の核である「空(くう)」、そこに悟りの世界がある。しかし、ひとことで空といってもよく分からないので維摩は現実的な、人間の生きている世の中から深いものを読み取り、そこから真実を説いた。本来もともと二つに分かれたものでなく、一つのものである。この不二の教えを、「不二法門(ふにほうもん)」とした。では、不二法門に入るにはどうすればよいのかという問に対して文殊は言った。「すべてのことについて、言葉もなく。説明もなく。指示もなく。意識することもなく。すべての相互の問答を離れ、超えているとなる。これを本当に不二法門に入るとするのだ」と。ついで、維摩はどうしたのか。「何も語らず、黙った。」その日、その時に、自分の居す所において合掌し、礼拝した。そして、そのまま静かに煩悩の眼を閉じて、秘密の観法に坐った。すると、たちまちに(秘密荘厳)深く精密に整ったもので飾られた。ほとけの世界が維摩の瞑想による仏眼(ぶつげん)によって顕れた。

この時に、維摩と文殊の問答が行われていた四畳半という小さな部屋の中に、68億由旬(ゆじゅん)=476億㎞という大きさの須弥燈王如来の師子座(椅子)が現れた。深い観法のなかで悟りの眼をもってしなければ分からない。維摩はふつうの暮らしをしながらも仏教に深く帰依(きえ)し、方丈(四畳半)の部屋の中で深い覚悟と、瞑想をもってほとけの世界を現し、真実を説かれた。「方丈」とは、このような祈りの意味・場所である。つまり茶室はここに基本をおく。

大徳寺僧堂師家

川島昭隠(かわしま しょういん)禅僧。紫埜槐安衲
表千家12代 惺斎 瑞翁宗左(1863–1937)の大徳寺参禅は二回に及ぶ、大徳寺471世/牧宗宗寿(1820–1891)と同世代の昭隠会聡(1865–1924)。槐安軒晩年55歳に、出身の美濃加茂正眼寺僧堂に戻った(その前に参禅か)。その時、雲衲五十余人が師に従ったという。和尚は生涯教育者であったと言えるのではないか。
当時の師家(しけ)とは:禅宗で修行僧を指導する力量を具えた者をさす尊称で、大徳寺臨済宗では修行僧に公案を与え、その境涯を点検できるのは師家とされるらしい(妙心寺派には師家分上というものがあって法階に関係がある)。どういう方法だったのだろうか? 宗匠には何をどのように伝えられたのだろうか? 正確に知りたい。
禅の書というと「喝」とか、置き字が代表のようだが、映画のタイトルのような[=雲門十五日]今ではごく一般的な言葉を本来の意味で使っているように思える。それにしてもこの「日」の字の書き方は初めて。

壺中日月長

こちゅうじつげつながし
『虚堂録』巻八
只知池上蟠桃熟。不覺壺中日月長。の強調すべき部分の五字禅語。
壺の中は「壺中天」「壺中天地」とも言われ、中国の伝説によれば別天地があって、日月の運行は長久だという。
禅では悟りの境地の喩え、そこは時間の単位が長いというよりは、時間的制約や束縛を超越している場。
この軸「胤衲出?」を掛けることにより、時空を超える。金堂壁画焼失の時の幻であろうか、解読できるかできないかの謎な墨跡。澤木興道は1908年法隆寺勧学院に入り、この大僧正に唯識を学んだ。言葉がみつからない。合掌。先日の黄檗百拙のもよかったが、こっちの方がなんとなく味がある。

ところで、茶の湯では、茶室と茶壺と小壺(茶入)の各々の中、三つの無限な空間が存在する。おそらく全て大小同じ世界だと考えられている。

諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教

しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう

一休の書であまりにも有名。
もろもろの悪をなすことなかれ
もろもろの善を奉行し
自らそのこころを浄くせよ
これ諸仏の教えなり

道徳的で、基本中の基本。おとなしいよい掛物と出会えた。おそらく大徳寺169世墨蹟、ぼくの見立てだと19字のうち15の文字は確証。真筆だと思う。生ぶ表具もいい状態で二つの落款の印影も一致。贋作だったとしても、すごくいい(このぐらいの書になると極めがないものは贋作と考えてよい)。これは素晴らしい贋作w