月自画賛

不審菴の最も有名なお茶湯で、今日の家元制度の基を作り出した表千家「中興の祖」と呼ばれている7代家元如心斎の遺徳を偲び、9月13日に「天然忌」が営まれる。その「天然(宗左)」は居士の道号法諱であって、円相の中心に自己を意味して書かれた掛軸が掛けらる。
円相になぜ「平常心是道」とあるのであろうか。一体いつ書かれたのであろうか。謎が多い書がきた。出会ってからちょうど一年、その宗匠の書かれた円相が、とうとううちに。了々斎箱書で「月」とある(完璧)。この円相は満月、うちのシンボルとなる。それにしても残り香のような「、、、、」がいい。

初釜会記

掛物 惺斎敬翁宗左執筆「茶カフキノ記(1913)」(急遽変更)
濃茶 辰昔 詰:一保堂茶舗
薄茶 一碧 詰:吉田銘茶園(普段使い)
主菓子 寶ぶくろ 拾両・宝珠・小槌 鶴屋吉信
菓子は縁起の良い頂き物。他道具は2021年から変わらず。
うちは嶋台、振振、紙釜敷は、今後も使うことはない。

茶カフキノ記 残月亭ニ於(癸丑1913)

執筆は惺斎。即中斎執筆の茶カブキのお軸から約50年前の。再び家元書付「表具好ミ」のが手に入った。しかし、また予想と大きく異なった。やはり三人が当てているが、これもおそらく皆中者の正客*に、お渡ししたのでしょう。不審菴の(高木貞正宛)領収書はそのままに。家元利休忌の茶カブキの客数は10名と聞いたことがありますが、12名とは、当時どのように実施されたのでしょうか。それにどなたが亭主だったのか。まったく想像ができません(そこが楽しいのですが)。それも大正2年ですから、明治39年の火災から、7年後の3月27日、惺斎50歳。即中斎(覚二郎)12歳。

荒圃* 全
又三郎 一
与三郎
久弥 全
雲子 一
さた子 全
小泉
芳子 一
薫子 一
天満
琴江 一
冷月 一

この頃から、内々にどころか年中行事のように、し始めだしたのだろうか。茶道の近代化に向けているようでもある。当時は1910年再建の目新しい現在の残月亭でということになる。年始から興味深いお軸を掛けて濃茶をねることに集中する。

大福茶

2024年、あけましておめでとうございます。
元日明けは夜咄のようにして、最後に自服を。かぁちゃんもち(戸頭農場)を七輪にて焼き、雑煮を祝う。

掛物 山﨑宗鑑書「初祖菩薩達磨大師」(禅の初心を込めて)
釜 古天明小丸釜 山口浄雄折紙
炉縁 久以造 沢栗木地
香合 如心斎作写 傳来独楽紋(青釉) 惺入造 惺斎在判
蓋置 竹節 影林宗篤作 兼中斎在判
茶入 わし棗 了々斎在判 仕覆:蜀江錦写シ
茶杓 随流斎作「雨請」共筒(随流斎) 如心斎箱
茶碗 朝日焼 鹿背茶碗(辰にみたて) 元治好
蓋置 隅田川焼千切 7代白井半七造
濃茶 小倉山 詰:山政小山園 佐久間宗信好
菓子 浅草美家田(東日暮里一丁目) 人形焼
  つきもの:利休好手燭

わし棗

利休の秘蔵といわれる黒の鷲棗(わしなつめ)は、取り置きするときに握りこむように鷲掴みにする習いから呼ばれている小振りの尻張棗とされている。盛阿弥作の本歌は現存していない。利休が使用した記録もない(切腹に向かう際に懐に忍ばせたという説も)。したがって想像のかたち。仕覆は蜀江錦で、宗旦が有楽斎を招き盆点をされた記録があるため、型破りな棗とされる。おそらく、上から手の甲を水平にして五本の指で鷲掴みに取り置きする扱いで、この点前は、稽古ではほとんど習わない。
うちのは了々斎在判箱書きで、このようではなく利休形の黒小棗の写しに近い。いわゆる尻張形ではなく、蓋が丸く尖っていないため茶杓がうまくのらないこともない。謂れからすると、「この上なし」の意をもって、鷲掴みをしてから、蓋を開けるためには普段の平棗のように自然に持ち変える手が加わると、男点前の流れが似つかわしいのかもしれない。

宗鑑書「初祖菩薩達磨大師」

家康の遺品「駿府御分物」として尾張家に伝わった一休宗純墨蹟「初祖菩提達磨大師」(徳川美術館蔵)はとても有名。禅宗名号「初祖号」とも呼ばれ、粗い竹筆を用いた八字一行書。室町時代を代表する書。この墨跡は当時の茶室の床には(横物が多かったためか?)長かったという逸話があり、氏郷、三斎両氏が同席で、芝山が利休に「床にかかるように」と願うが利休は同意せず、珠光の元表具には手をつけることはできないと、それ以来一行長物が流行したと伝わる(江岑咄之覚)。
うちのは生没年未詳の山崎宗鑑のもの。(もう少し調べてみると)室町後期、近江源氏佐々木氏の出で、晩年は山城国(京都府)山崎(この地名を姓のようにいう)に庵を結び閑居、自ら竹を切り油筒を売っていた隠者であった。たぶんその頃の書。一休宗純に参禅した後、諸国を遍歴行脚し、連歌師であったらしい。近世俳諧の先駆をなす「犬筑波集」の撰者。「庵の入り口に人を追い返すべく、客を上中下に分ける札を掲げていたとか」興味深い。
大綱達磨図、白隠達磨図や宗匠画讃など有名なものはいろいろあるけど、いずれの肖像や姿はある種の記号なのだけど、後に想像されたものは明らか。やっぱり茶掛は達磨の仏画より名号が相応しい。

令和5年11月号 同門

興味深い茶道具の諸々、江岑宗左による「草人木」という茶書から

一、昔(利休以前)の名目に云  一茶壷 二釜 三茶入 四文字(掛物のこと)
一、中比(利休期)は  一茶入 二掛物 三釜 四茶壷
一、当代(江岑期)  一茶入 二掛物 三花入 四釜  壺の沙汰なし

つまり、茶の湯にとって掛物は利休の時代に四番目から二番目に重要な道具とされ、江岑の時代にもその思想は受け継がれて、今日に至っていると考えてよい。茶入と壺は人と茶の世界の宇宙観(茶室を含めた空間認識)。その次にお軸が重要なことがわかる。すごいことです。現代最ももてはやされている茶碗はいずれの時代も入っていない。当然のこと。

字休は 一掛物 二茶入 三釜 四茶杓  茶碗の沙汰なし

茶杓は壺の中に、人的介入を示す道具。清らかな一撃を示す。五行「木」「火」「土」「金」「水」が揃うことが肝要。

大綱の余白に

偶然、大綱・龍雲軒 和歌合筆「山寺夏」に出会った。歌をよくし、書画にすぐれた大綱宗彦(大徳寺435世 1772–)は吸江斎とよくまじわった。歌の書風はあまりにも有名。右寄りに記され、左は紙白の空間、好む人は多い。そこに予想通り一筆入れた僧がいた。牧宗宗寿(大徳寺471世 1820–)、惺斎の参禅の師。茶に親しんだ。三友棚が有名で、明治初年、山内の松・竹材を提供して作られた。碌々斎は松材の天板地板の塗りを好んだ。三千家の融和の象徴として、本歌は四つ作られ、各家と大徳寺に収まる。三千家とも炉にのみ使用する。

さて、この軸装は明朝表装で生ぶ表具、意外だが、実は大綱には合っている。外題(軸木の近く)には、

紫野大徳寺大綱極御詠歌安國少林禅逸師
が給ふ今嘉永四年辛亥(1851)事
田府青表々住國作
とあり、いつの書か特定できる。
同時に書いたのだとしたら、79歳と31歳か。感慨深い。

三木町棚と江岑棚

江岑棚という小棚を先生からいただいた。今日の稽古はこれで(思い出しながら)!由緒は:

箱書には、
表千家四代江岑好み「三木町棚(山中善右ヱ門所持の頃?)」、
家元に伝来している江岑好みの本歌は、若党の手造りと言い伝えられているが、寄木造りで、引出しはガタガタで、四隅の足は全て異なる形をしているなど素人細工である。

  • 天板と地板は、杉木地。
  • 引出は、樅(モミ)木地。ツマミは、竹。
  • 柱は、檜(ヒノキ)木地。
    一説には、殿様から頂いた菓子の折箱を拝領したものを、天板と中棚の間に樅材で出来た引出しに見立てて、江岑が若党に命じて棚に作らせたと伝わる。
    その頃、紀州徳川家に茶頭として出仕した江岑は、和歌山城下の三木町に屋敷を賜り、毎年期間を決めて京都と和歌山との往還が行われていた。おそらく屋敷滞在中にあった樅・檜・杉の残材を寄せ木にした(遊び心が)この棚を好んだとも。

その江岑伝来の棚を表千家六代覚々斎が正確な寸法で桐木地に作り変えて、実用化。
箱書には、
表千家六代覚々斎好み「江岑棚」、

  • 総桐木地。ツマミは、桑。
本歌

且座か中置きか

久しぶりに稽古に。先生は迷ったらしいが、今日の稽古は、当然中置きではない。且座をアレンジした稽古となった。

この酷暑の中、中置きの稽古はありえない。いくら先取りといっても「同門」九月号に(平成24年のしつらえが)載っているが、この酷暑は本誌が発行する時点で予想できたはず(気の利いた補足の添え言葉もない)。誤解を招く掲載である。茶事も稽古も、ここのところ気候が変化している中、本来の道具組みを見失っている。そのためにそのような対策を門人に伝えるのがこの機関紙ではないだろうか。おそらく10月になって、気温が落ち着いた頃の茶を嗜む人たちへの配慮であろう。杓子定規に情報を載せるものではない。先生とこの話題をしてて、本当に最近のお宝主義「うわべ」の振る舞いは困ると。反省してほしい。且座を考案した天才如心斎はどう考えるであろうか。今日は天然忌。

最古の且座の記録か:備忘録

正客=楊甫(住山)
次客=宗参(土橋)
末客=紹甫(湊)
 且座有候
東=宗左(吸江斎)
半東=宗与(久田)

一、掛物 天然筆円相
 前ニ獅子香炉 溜ヌリ䑓
一、釜 浄元累座
 道安形風炉
一、花入 啐啄斎尺八 銘「ソリ」
桑三重棚
一、水指 金廣口
一、茶入 新兵衛作 三柏
一、茶碗 天然造 銘「いとめ」
一、茶杓 拙作 筒書付致
 コホシ エフコ
 薄茶器 ツホツホ棗
 香合 紹鴎形白粉解
 炭取 油竹

嘉永(1850)年旧暦8月13日昼前後 残月亭於いて