学問、知識を必要としない境地。
徹底的に仏道を究め、学ぶことを超越した状態。
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中国の永嘉玄覚(665–713)が悟りの境地をうたわれた『証道歌』の劈頭:
「君見ずや
絶学無為の閑道人
妄想を除かず真を求めず
無明の実性即仏性
幻化の空身即法身」
行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静、体安然、縦ひ鋒刀に遭うとも常に坦々、・・
「無為」とは自然のままで、観察を絶ち、正道を守ることさえ忘れた、淡々としたという悟り超越の境地をいう。志を立てて何十年と艱難辛苦、竟ついに学するに学するの法なく、修するに修するの道なきところに至って、今まで学んで来た法も、修して来た道も、すっかり忘れ果ててしまう。
悟りを得た人は行住坐臥すべて正しい坐禅の境地であり、お釈迦様が悟られた如来禅そのものであり、絶対無為の大人格、絶学無為の閑道人の境地。至極のんびりした境界の人を「大閑(おおひま)のあいた人」という意味で「閑道人」という。
紫草野衲凍雲子出(196世/傳外)
寛文年間(1661–1673)三玄院雲甫首座、中興の祖
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正法眼蔵(1231‐1253)「行持巻上」
「寒炉に炭なく、ひとり虚堂にふせり、涼夜に燭なく、ひとり明窓に坐する。たとひ一知半解なくとも、無為の絶学なり。これ行持なるべし。」