「正統の茶室の広さは四畳半で維摩の経文の一節によって定められている。その興味ある著作において、馥柯羅摩訶秩多(びからまかちった)は文珠師利菩薩と84,000の仏陀の弟子をこの狭い室に迎えている。」茶の本 岡倉覚三
この一文では理解しにくいので:
「ほうじょうさん」と呼び親しんでるお寺の主管者のことを住持職。ふだん住職と呼び、そしてふだんいる居室を「方丈」という。維摩経(ゆいまきょう)に出てくる主人公、維摩居士(ゆいまこじ)は一般人のようにしながらもほとけの眼を開いた聖者であり、だれも維摩(ゆいま)にまさる問答を得なかった。その開眼の維摩の居室も一丈(約3m)四方の方丈であった。維摩居士と唯一対等に問答をした文殊菩薩(もんじゅぼさつ)との場面:
歩いていると止まっている
起きていると寝ている
甘いと辛い
あなたとわたし、そして
生まれることと滅すること(生滅)*
よごれていることときれいなこと(垢浄)
好ましいものと好ましくないこと(善不善)
煩悩のあることと煩悩のないもの(有漏無漏)
智恵のない世界にいることと智恵のある世界にいること(世間出世間)
我があることと我というものなど無いということ(我無我)
生まれ死に生まれ死にをくりかえす輪廻の世界にいることと智恵を得てくりかえしの世界から脱したやすらぎとさとりの境地にいくこと(生死涅槃)
眼耳鼻舌身意にまどわされていることと惑わされるものがないこと(煩悩菩提)*
*本来の性質(本性)を観察したならば、迷いも苦しみも真理の会得(悟り)も生まれることもなく、滅することもない。これらは普通の感覚でみれば反対のもの、別のものになる。でも真理に立ち返れば、それらは全て分けられるものでなくなる般若心経の核である「空(くう)」、そこに悟りの世界がある。しかし、ひとことで空といってもよく分からないので維摩は現実的な、人間の生きている世の中から深いものを読み取り、そこから真実を説いた。本来もともと二つに分かれたものでなく、一つのものである。この不二の教えを、「不二法門(ふにほうもん)」とした。では、不二法門に入るにはどうすればよいのかという問に対して文殊は言った。「すべてのことについて、言葉もなく。説明もなく。指示もなく。意識することもなく。すべての相互の問答を離れ、超えているとなる。これを本当に不二法門に入るとするのだ」と。ついで、維摩はどうしたのか。「何も語らず、黙った。」その日、その時に、自分の居す所において合掌し、礼拝した。そして、そのまま静かに煩悩の眼を閉じて、秘密の観法に坐った。すると、たちまちに(秘密荘厳)深く精密に整ったもので飾られた。ほとけの世界が維摩の瞑想による仏眼(ぶつげん)によって顕れた。
この時に、維摩と文殊の問答が行われていた四畳半という小さな部屋の中に、68億由旬(ゆじゅん)=476億㎞という大きさの須弥燈王如来の師子座(椅子)が現れた。深い観法のなかで悟りの眼をもってしなければ分からない。維摩はふつうの暮らしをしながらも仏教に深く帰依(きえ)し、方丈(四畳半)の部屋の中で深い覚悟と、瞑想をもってほとけの世界を現し、真実を説かれた。「方丈」とは、このような祈りの意味・場所である。つまり茶室はここに基本をおく。