尽十方無㝵光

隣の新館予定建屋(実は大ボロ屋)に初めて踏み入れた記念日に。A~NAMDA~

じっぽうをつくして ひかりえることなし 十字名号から前二字後二字計四字省略、つまり六字名号(ろくじみょうごう)「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」となる。本来は「帰命尽十方無礙光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」の十字。
帰命は身を投げ出して仏の教えに従うこと。語尾の光如来は煩悩の闇を照らす永遠の光明である阿弥陀如来の徳をあらわしたもの。したがって南無阿弥陀仏=「阿弥陀仏に南無したてまつります」ということ。正法眼蔵(1231-53)「この十方、無尽なるがゆゑに、尽十方なり」ありとあらゆる方を尽くした世界に何物にもさまたげられない光。老師の書は「碍」いしへん 㝵=「日」「ー」「寸」、「礙(さまたげる)」の異体字。石が省かれている「むげこう」は、なぜなのだろう。

父元治はじめ、ご先祖全てが居る長野県佐久市の貞祥寺に関わり深い沙門泰仙老師。弟子丸泰雄は澤木興道に18歳で佐賀で出会い、禅を実践するよう勧められ、51歳1965年沢木興道師より京都安泰寺で出家得度を受け、最後の弟子「黙堂泰仙」を授与され、正式に弟子丸泰仙となる。この頃、桜沢如一というヨーロッパで自然食を普及しながら、東洋哲学を説いていた人と知り合ったらしい。フランス風典座につながる。1966年夏、来日した80人程のヨーロッパの人々に貞祥寺で坐禅の指導した(その頃、清久寺住職に?)。そしてちょうど一年後シベリア鉄道でフランスに渡り、思想家などと交流を持ち、多くの人々が彼の教えを受けた。現地では、おそらく布教や僧侶としての仕事、執筆、多忙だった。故におそらく墨跡は少なく、唐紙に筆を落とすことも少なかったと想像する。1969年モンパルナスの駅前に新道場を開設し、ここを本部とする「ヨーロッパ禅仏教協会」を設立。1970年巴里山佛国禅寺を創立。その後、ヨーロッパ各国に開教道場63カ所開設、Zürichの道場もその一つ。今でも貞祥寺の禅修に多くの孫弟子たちが各国から訪れる。墓所は同寺にあり、母もぼくも先祖と一緒にここの墓地に眠る予定。
仏掛はヨーロッパには存在するMonikaさん所有の「福寿無量」だけ?ひょっとすると禅道尼苑に部屋あった「天上天下当処永平」も? 日本にあるのは極端に若書あるいは歿直前か(この書付は筆の運びから後者)。本当に老師の掛軸は見つからない。おそらく数がとても少ない上、国内では不明なことが多い。
誠信書房『正法眼藏現成公案解釈』『正法眼藏摩訶般若波羅蜜解釈』を執筆。時々読んでいる座右の書。

http://kyoto-morita.org/wp/new-blog/2016/07/08/京都森田療法研究所のブログで解説されたストラスブールの禅仏教センターの案内冊子に掲載されたフランスに禅(曹洞宗)を広めた僧侶、弟子丸泰仙禅師の写真と「無げ光」の書。

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