近江国栗太郡志那村に生まれ、志那弥三郎範重といい、幼少時より室町幕府足利義尚に仕え(祐筆とも)、一休禅師とも親しく、能書家として知られている。書風は尊円流の素眼である尭孝の流れを汲み、時に粗略と思われるほど荒削りで自由奔放な筆運びで後に「宗鑑流」と認められる書体系を確立した。筆耕や油筒売りを生活の糧としていたと伝わる。義尚が鈎の陣で没し、後世の無常を感じ出家した(1489年)。その後山崎に「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。[wikiより]
初祖は号で、達磨禅師のこと。肖像画や略姿の掛軸が多いが、江戸初期の茶会記の多くは書。なぜか菩薩を略した黄檗の僧の六字一行が多い。