江戸の楽陶。1819(文政2)年頃に佐原菊塢(きくう)が自邸内に窯を開いて、新梅屋敷(向島百花園)内に起こした。隅田川中州の土を採り、作品は新梅屋敷で土産物として売られ、都鳥の絵を描いた器や都鳥の香合が代表される。菊鳩の陶法は諸説あり、京都の名工尾形周平より受けたともいい、あるいは酒井抱一所伝の乾山伝書に倣ったとも、吉向治兵衛(きっこうじへえ)から学んだものともいい伝わる。菊鳩は早くから風雅をもって抱一・文晃・詩仏・千蔭・春海・蜀山らと交友があったため、隅田川焼は当時の名物としてもてはやされた。
震災前(明治から大正)に今戸で製作した隅田川焼の蓋置。この華奢な千切(中央がくびれた立鼓形)は今戸の7代白井半七(1923年関東大震災に被災し、今戸焼の窯は崩壊。碌々斎に引き立てられ、伊丹市に移窯した焼物師)作。素朴なへら彫りや押し印で都鳥が水面にいろいろな姿で描くことを得意としている。その通りに透かし鳥と彫り鳥があり、長楕円形に行書体の「寿ミ田川」と裏の立ち上がりに長方形に「半七」の二穎の陶印を捺している。
今戸焼を代表する陶家の初代半七は京都の土風炉師より技法を修得したとされ、貞享年間に土風炉や種々の茶器を制作したと伝えられる。2代白井半七は初代の技法を継承すると共に、享保年間に瓦器に施釉した楽焼風の軟陶を制作して「今戸焼」と呼ばれた。4代~5代頃より京都の伏見人形の影響を受けた「今戸人形」を制作し、浅草寺参詣などの土産物として天保年間に隆盛した。4代~6代は「芦斎」、7代は「楽半」と号し、7代までを「隅田川半七」「隅田川焼」「今戸焼」と呼ぶ。ここまでが江戸の半七。9代は8代の作風を受け継いで乾山写しなどで有名。小林一三の招きがあり宝塚市、そして三田市大原にと度々移窯し、共に料亭「吉兆」の創業者湯木貞一と親交が深く、作風が江戸今戸からかけ離れ、華やかな京焼の作風を取り入れ別物。