銀地竹中次

とうとう手に入れた原羊遊斎作。医師であり茶人(宗偏流時習軒派、それ以前に遠州流を学んでいたとされているが、石州流も学んでいたともいわれている)の神谷松見箱書。立上に花筏蒔絵(字休菴初蒔絵)、内朱。知られた江戸時代後期の江戸蒔絵師による茶器。長年探していたもの。その様なものはないと思っていたが、やはり存在していたのか。他流派の道具だが、ここ音無川の辺りで物語が展開する前の仕事のようである。凄い蒔絵。地ずり(盆付)ちりの近くに「羊」の銘が微かに毛彫されている(これは大概見落とす)。羊遊斎の有名なものは外観がド派手な印籠だが、この茶器は全く地味で、ちょっと見、蒔絵の凄さがわからない。そこがとても気に入っている。
羊遊斎の生涯については不明な点が多いが、文政13(1830)年に藩主松平頼恕からの制作を命じられ、藩主の御用品を手がけることになるので、確実にそれ以前の作と考えられる。おそらく1800年から1809年の間の作と断定できる。というのも、松見は1800年に78歳、1809年に87歳歿。47歳下の羊遊斎は31〜40歳で、抱一は39〜48歳。実に興味深い。いつどのようにそれぞれ接点を持ったのであろうか。となると、羊遊斎はやはり50代?に根岸に出入りしだすのか、、、当時、神田下駄新道に住んでいて、根岸の寮は抱一の雨華庵と庭続きであったといわれている。抱一は文化6(1809)年に下谷大塚に寓居を構え、「雨華庵」の額を掲げているらしいので、まさしく、乙川優三郎著『麗しき果実』の話につながってくる。逸話でもその頃は名士との交遊に忙しく、工房では自ら蒔絵することはほとんどなく、腕の良い工房の職人に仕事をさせていたらしい。おそらく、当時の関係する人たちの流派はこの周辺に近いはず。そして、この茶入はご本人の手による貴重な若作であろう。弘化2(1845)年12月24日に没し、現在巣鴨の講安寺墓地に、墓石には自ら創作した丸に羊字紋、諡号「巍岱院照月更山信士」。

備忘録:『陸安集(りくあんしゅう)』
京橋三十間堀に住んだ材木商の岡村宗伯に始まる宗偏流時習軒派の三代に当たる神谷松見が延享2(1745)年、23歳の頃に編纂したもので、序文は師匠の時習軒二代 岡村宗恕(そうじょ)が書いている。宗恕に入門したのが18歳の時とされ(流祖宗徧も同じように18歳で宗旦に入門)、『茶道便蒙鈔』をもとに師である岡村宗恕と山田家三代 宗円から過去の宗匠方の伝聞に、注訳を加えたもの。時習軒及び山田家においても明治期までこの『陸安集』の筆写をもって皆伝とする慣わしがあったという。宗偏流四代 漸学宗也は三代 江学宗円の実子で、神谷松見から教えを受けた宗也はその皆伝の暁に神谷松見から陸安斎の号を授かり、八丁堀に茶室を構え、広く千家の茶の湯を教えたことにより、その当時は「江戸千家」といえば宗偏流を指すまでになっていたようで、これは川上不白が登場するまで続くことになる。

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