宗がつく名前

千利休は「宗易」であった、、、本日、雅号が先生に届きました。ぼくは「宗字(そうじ)」と名乗れます(おじいちゃんは彫金の雅号が「一香」、家系ではそれ以来)。表千家講師の茶名、宗名とも云うらしい。とてもうれしいです。思えば、平成元(1989)年に同門に入りまして、35年余、ようやく逆リスキリング達成。稽古場としては登録していませんが、とうとうここ字休菴にて活動開始です。これで、晴れて今から、胸はって生徒を持つことができます。しかし、作法や所作を教えることは、デザインとは訳が違います。実は、ぼくの茶道は、先生になることを目指してしていたのではありません。逆に全くその気はなかった。大学の先生でコリゴリ。でも、なぁんと今習っている先生から、「小泉さん、生徒をとったら?」と言われてから、なんとなく、その気になってきて、この流れになってしまった。実は活版の先生はとても類似している部分がある!そこを徹底的に追求していきたいと思います。とても興味がある点なんです。その真反対の例は、かつてバーゼルで或学生のことをワインガルトが「デザインをやるのはよいが、ここ(バーゼルの学校)には不適格だ」っと言っていたことを思い出す。
このことをわかりやすく説明、ン〜〜〜、極端な例、あの細川不東の茶碗が好きな方にも点前を教えなければならないw つまり、趣味嗜好思想が全然違う方にも点前は教えることができるということ。デザイン教育とは全く違うのです。複雑で説明しにくい、そういう領域に入ってきました。
このことは全般的に、茶の作法ということがいかに偉大かわかる。つまり、全く違う好みの方も、同じ流派であれば、同じ作法の点前をするのです。うちの社中は、少人数でそうはならないと思うけどw、、、ということで、発音的には(大好きな)宗二、(毎日している)掃除、ではありません。とにかく最近、とてもゆる〜い生活になってきてるんで、よい刺激です。
WH叢書『字休菴の栞』の発刊が遅れています。がんばらなくっちゃ。

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