道具は昨年と同じ。
濃茶 寅昔 詰:一保堂茶舗
薄茶 龍華の昔 詰:陽光園 佐久間宗信好
菓子 常のもっちり黒糖饅頭
花入 唐銅鶴首 京名越6代浄味造 大西浄中極
花 和水仙
omicronで余計な外出をしなかったため。常に近い。
道具は昨年と同じ。
濃茶 寅昔 詰:一保堂茶舗
薄茶 龍華の昔 詰:陽光園 佐久間宗信好
菓子 常のもっちり黒糖饅頭
花入 唐銅鶴首 京名越6代浄味造 大西浄中極
花 和水仙
omicronで余計な外出をしなかったため。常に近い。
…その書物は一般大衆から遠ざけられ、啓蒙の光は消されるのである。The Art of Making Catalogues of Libraries: Or, a method to obtain in a short time a most perfect, complete, and satisfactory printed catalogue of the British Museum Library, 1856
「特健藥(27名)」意味不明。先日の「東都名家寄合書畫(9名)」から時代を経て、
今年も若干ですが印刷物の年賀状(昨年は出版物は実現しませんでしたので。予告)をつくりました 。なんと昨年中に刷り上がりました。また「クリエイター100人からの年賀状」展 vol.17のために。見本帖本店で実物の展示を、どうぞお越しください。昨年と同様竹尾が推奨している「グムンドバイオサイクル-FS」を使用。ぼくのはカナビス。宇野のはサイクル。https://www.takeo.co.jp/exhibition/mihoncho/detail/20220120.html
昔から現在まで、ぼくに直接依頼してくださり続いているのはこの企画ぐらいだろうか、、、それよりずっと遡り、駆け出しの頃、企画部長の木戸さんから突然電話がかかってきて竹尾の細かいデザイン仕事を頼まれて、やっていた頃のことを最近よく思い出す。楽しかった。SNSやメールが全くない頃の話です。なので、このために年賀状を拵えているに近いですがw 実際はこのように年賀状の体をなしてはいません(昨年は年賀状を毎年くださっているのに、ぼくが実家にいることを知らぬ輩もいたぐらいですからw)。世の中もそういうことでしょう。
今年は、長年企画を培ってきた「音無川文庫」の登場。とうとう始動です。ここ数年、この準備に労力を重ねてまいりました。全てを次世代のために。桃山時代から江戸時代の掛物に関わっていると日本の本来の紙はすばらしいとつくづく感じます。
昨年、晴れてTypeShop_gの敷地が、以前の倍になったので。そして、今までの建屋と活版を含めた施設設備も充実させるのが今年。
宇野はLetterpressと、もちろんデザインでStudio/Workshop。
ぼくはOffice/Archiveそして茶の湯ということになります。今、学芸員のための予備知識をつけています。
所蔵品は:
表千家にまつわる侘茶道具(掛物を中心に)
禅僧の書(大徳寺と永平寺を中心に=うちの教育に近い思想のものに限って)
日暮里と根岸の文化人(江戸琳派を中心に)
スイス・タイポグラフィ(バーゼルAGSを中心に)
活版印刷(バーゼル流と??に関する和文活字)
教育の流派(school)に関係する資料など。まだまだですが、ご期待ください。
2022年、あけましておめでとうございます。
昨年も、最後の郵便物が同門1月号、一点でした。今年も同じように始めます。
さて、大晦日から炉の火を絶やさず、また元日は夜咄のようにして、最後に自服を。
掛物 漢詩横物 元伯宗旦筆 不仙斎箱
茶杓 羽淵宗印作 覚々斎筒 兼中斎箱
茶碗 古高田焼 銘「寿須」
床 七官青磁鉢、石菖蒲
道具は一部昨年のを差し替えました。とにかくお気に入りの道具で、
菓子 羽二重団子 餡団子(こし餡)
当時の東京府立工藝學校のもので、遺品の中に大事に入っていた。担任の染谷駒太郎はぼくの祖父。つまり母のお父さんが父の先生でずっと父の青年期の成長を見守っていたことになる。とても稀な先生と生徒であったと想像する。詳しい話をぼくは聞いたことはない。もちろん母は知らない。謎だ。
来年は、この辺りが先祖の所有していた土地のカタチに近くなる。ぼくが生まれた頃に区画整理があり、ここ上根岸と背中合わせの日暮里町3丁目=東日暮里5丁目が、近代的な都市の状況になっていくきっかけとなった(他の日暮里地区は異なる)。そして今年、都立竹台高校の新校舎建築工事の部分が完成した。全く違った風景となった。父が見たら何と言うだろう。
その四、礼儀を知らない非常識さ。
挨拶というものをしない。普通はよく若者が槍玉に挙げられるが、そうではない。80にもなって非常識極まりない旦那。まず引越しの挨拶は、ゴミ出しのついでで、偶然に顔を合わせた時に「あっそうだ!」その一言で相手を捕まえて、自分の言いたいことを一言二言と始末の重要なことを相手に告げ、返礼の品を渡す。とんでもない習性だ。失礼極まりない。そして似た者夫婦、奥方は、ちょっと留守中をねぎらうために気持ちばかりのお土産を差し上げても「私はあげていないのに、、、」手を振って断る。せっかくお互いの気分を少しでもよくするための行為が逆にあだになった。下町の近所付き合いのいろはを知らない(隣と言っても、ほんとうにくっついているのですから、好きでくっついているのではないが)。町会の回覧板は彼らが長年仕切っていたが、二週間遅れで(締め切りものは役立たず)平気でいい加減に回してて、本部から昨日きたとかよくわからない言い訳をしていた(責任感が一切欠けている)。
普通の人であれば、このような長い間、こちらは地主であって所有者、彼らはそこを使用している借地人であって仮住まいの身。江戸時代だったら上下は明らかである。現代はこの理論は通用しないが、上下はないにしてもお互いお世話様の気持ちが発生して当然。嘘でも一言、こちらに礼をいうのが当たり前。常識がないというしかない。今まで40年以上もうちの庭の敷地をお貸ししていた夫婦のことを何も知らなかったとは、、、ぼくにも落ち度がある。かといってこのような輩をいちいち気にしていたら仕事にならない。
受けた教育ではないのかもしれないが、一度も社会に出ていない夫。子供のいない世間を知らない妻には、おそらくごく当然の行動ばかりなのであろう。ぼくには妻子はいないが、大学教員をしている時に、長岡にすむ学生の親に、いわゆる親身になって話をした記憶がある。実の親以上の気持ちがないと地方都市の大学教員は務まらない。父親は泣いてぼくの話を聞き入っていた。さて、この輩とうちとの過去を調べたいぐらいだが、父はこの世にいない。一通の覚書が残っているだけ(この借地人だけにこのような書類=何を意味しているのか?)。これはぼくの想像だが、彼は満足に教育を受けていない哀れな人。10代で故郷から集団就職で出てきて、ある時、職から外されたのであろう。ちょうど40歳くらいで独立と同時に親からの遺産を手にし、うちの家作に。高度成長期に二流の仕事でそれなりに。町会の人付き合いは例外で、最近まで積極的に輪投げなどをしていた模様。最後まで、荒川区でなく台東区に籍を置いていたのにも何か訳があるのだろう。ここ近所の職人とのつながりはない(情報もネット上に一切ない)。うちの父は銀器組合の審査員をしていたのに、何も輩のことを語ったことはなかった。よく思い起こしてみると、とても少ないぼくの彼らへの記憶として、唯一の事実は中学生の頃だったか、(高いアンテナを立てて)ハムをやっていたようだが、今この空き家の配線は素人(ビニールテープで粗末に巻いているだけ。先の朝鮮の方と全く同じ処置で、火災の恐れあり)。それと法華経だと思うが、よく鳴り物を叩いていたような(現在は、あまり耳にしない祝詞のようなとても短い念仏=気持ち悪いので仏壇があった床の間には、塩を撒いた)。最終的に本当に性分を知りたいのでできるだけ探ってみた。
契約時には、全く相手の人の顔を見ない、視線をできるだけ合わせないで意識的に避けている。ぼくは一瞬も離さず相手の瞳を見続ける。しかし絶対に目が合うことはない。引き渡しの時、総額の現金を相手の目の前に積んで見せた(送金の書類では何も起きないダメだ)。どうだ、礼を尽くすか。目はこちらを見ないが、初めて脱帽し一礼した。やっとした!失礼な輩が初めて礼をした。
この軽視(仮称)夫婦、人生で巡り合った人間の中で一番底の人間だった。【ごくろうさま】とは、ぼくは今まで使ったことのない言葉で、普通は「お疲れ様」を使用する。使用人など目下に対する見下した差別的な言葉と今まで思っていた。始めにこの言葉をこの連中から言われたとき(家の前の掃き掃除をしていた)の不快な気持ちが今も忘れられない。したがって、ぼくはこの人たちだけに意識して、何があっても、どんな時にも、不自然でも、お会いしたらこの言葉だけを口にすることに決めた。(仲介者を通しての交渉だったので、特に回答を求めることはないし)。
この「ご苦労さま」という言葉を受けてから、まずは相手を正確に知るという戦いが始まった。とにかく恐ろしかった。ぼくの周辺には全くいないタイプで想像がつかない未知の人間が相手である。まだまだ小さな出来事は山ほどあったが、ぼくは63年生きてきて、このような非礼な人間に初めて出会った。最悪な気持ちが何年も続いた。なので今年末のブログにこのまとめを記して終わりにする。来年はこれらのことを全て忘れ、新しい清々しい年にしたい。
大切なときには、即中斎好み「雲井」松榮堂製に限っていますが、以前は大久保紫月好みの「黒方(くろぼう)」を頻繁に使っていました。これは六種(むくさ)の薫物のひとつでとても有名。沈香、丁子香、甲香、麝香、薫陸香、白檀などをまぜて作ったもので、幽玄をあらわすとされた。源氏物語 第三十二帖 梅枝 第一章 光る源氏の物語 薫物合せ、三.御方々の薫物「さらにいづれともなき中に、斎院の御黒方、さいへども、心にくくしづやかなる匂ひ、ことなり。侍従は、大臣の御は、すぐれてなまめかしうなつかしき香なりと定めたまふ。」の一説にあり。今日は先生の好みだった鳩居堂製ではなく、初めて山田松香木店製を入れてみた。なるほど香舗によって全然違う!言葉では表現できない。
有名な北宋の黄庭堅「香十徳」の
感格鬼神
清淨心身*
能除汚穢
能覺睡眠
静中成友
塵裏偸閑
多而不厭
寡而為足
久蔵不朽
常用無障
今日はやはり*これでしょうか!
その三、住まいに対して無知。
錆びて朽ちた鉄製の物干し場(ベランダとは言えない)が釘一本で引っかかってる。とても危険。大地震があったら事故は必至。今も冷や冷や。家全体の取り壊しは最速で来年3月(昨日の打ち合わせで)。この空き家を観察して言えることは、軽視(仮称)氏は住居というものを全く知らないと言っていい。この二階に付随している物干し場は完全に違法建築の上に乗っている。
いい歳をして固定資産税を今まで一度も払ったことのない輩、しょうがないのかもしれないが、若い人だってとても苦労しマンション購入し、この税を払っている。それにも届かない人生を続けていたわけだ、いかにも自分の住まいであるかのように。ようやくそれに気づかせてあげたのはぼく。今はどこぞで、その税を払って気軽な生活を営んでいてほしい。さて交渉当初に、瑕疵担保を事前に免責しようと絶対条件を突きつけてきた。つまり瑕疵がすでにあるということを自分から証明していたのだ。こちらはそれをのんで逆に解放された人生を決めてさしあげたのですから、感謝してもらわなくては。
住まいの
★衛生上の問題:
クレゾールはそのため常備、ぼくは数年前にすでに荒川区保健所に申し出ていた(もちろん散布は禁止)。いくら忠告してもやめない。うちが犬や猫を飼っていても、その頃から通路で嫌がらせを続けている。おそらくこの家の床下の水はきちんとはけていない。故に夏場は腐敗臭がする。苦情を言いにいっても「えっ、クレゾール、ダメなの?」とだけ。
★換気扇の問題:
おそらく入居時にあのように設置されたのであれば、向こう隣に迷惑がかかることは必死、わざとである。普通換気扇は下降に向けるが常識だが、そうしていない。排気がモロ相手方向、窓に直接向けている。朝鮮の方への嫌がらせそのものである。
クレゾール+他証拠隠滅のため不詳薬剤(旦那好)と人工香料(奥方好)、その他不明の匂いが混入し、悪臭に毎日悩まされた。とにかく、家が腐っているのだ。この家の窓を開けると外の道路まで匂ってくる。空き家になってから、毎日窓を全開にして外気を入れているが、この異臭は消えない。一ヶ月以上経つのに、なぜか日に日に薬品の匂いがキツくなっていく。何の匂いがどこから出てくるのだろう。なるほど、この匂いを消すために人工香料を使っていたのか!
吉村昭の戦前のこの付近の小説に出てくるそのままの状態がここにはあった。「ドブ」の臭い。そしてその臭いを匂いで消す。このような混ざった毎日違った異臭がその家からする。この輩はいかに無知なのか、詳細に異臭のことを突き止めたいが、知らない方が幸せかもしれない。かわいそうな家屋、そして土地。早く解体してあげたい。
空き家を見て、何ら家には罪はない。そこに住んでいた無能な人間がこうするのである。解体まで事故なく建っていていただき、最後は酒をかけてお浄めをして、ねぎらうことにする。そして、この家を建てた棟梁のご家族がお元気なので、ご挨拶申し上げたい。
追記 12.29:そう言えば、氏の家で大掃除というのを一度も見たことがない。この家の桟をみるとよくわかる。埃が雪のように積もっている。ぼくはこのような部屋で普通に呼吸をすることはできない。コロナでなく自宅室内でマスク着用必至。
先ほど、【送付実施機関:私学事業団(4号)】老齢・退職給付 年金請求書というのを投函した。
ぼくは四つに分かれていて、国年・私学・国年・国年を全く抜けがなく完全に払っている。今回のは私学共済、明日が誕生日なので今日の消印から受付。うれしい、年金がもらえる、、、地方で稼いでいた頃に相当する年金なので、この間のはJAバンクの口座にした。他は郵貯と決めている。