工芸幅

千利休筆「茶道具注文黒印の文」
昭和40年代に盛んに作られた復刻版茶掛のひとつ。発行は講談社、大塚工芸社が制作、当時限定販売されたものでよくできている。以前から興味があった消息(単純な目的、内容、伝達)。昭和46年当時、富山の瀬川宗親氏所蔵の複製:

 注文
一 棗 一ケ
一 小板 一ケ
一 袱紗物 一ケ
一 茶巾 五ケ
一 茶巾洗(茶巾盥) 一ケ
一 面桶(曲建水) 一ケ
一 柄杓 一ケ     以上
 (右の)道具ども、(近江)大津の我ら宿へ届けられ候て給うべく候。
以上、七色にて候。正月二十六日 利休(オケラ判ではなく署名)【おそらく天正14年の消息/5年後殁】
 と黒印「易」(当時三通しかこの印文は発見されていなかったもよう)
(詳細不明の茶友)道哥まいる

名物道具を伴わない急の侘茶事にふさわしいお軸。複製なので気軽にいつでも誰でも知っている利休をかけられる(利休と書いてあるのが誰でも読める)!持ち出す時期は正月の後と合わせるのか、やはり利休忌がいいのか? いや、これは自由。普段使いの機能として茶一服のお招きに使えるので重宝。
第一印象は、茶巾五枚がとてもいい。大久保先生を思い出す「小泉くん、茶巾はとにかく白、清潔清潔」。
しかし、なぜこの7点なのか、この順なのか。謎が残る究極の茶掛。

大願成就!

この日を、母と(そしてご先祖さまたちと)指折り数えていました。

借地権に勝った。隣が退去!荒川区教育委員会の方の初の訪問と入れ替えをするように。記念すべき開城の朝。

ひとまず、この瞬間からこの地に本当の 平和 が。詳細は正式な引渡し日に!!

とにかく、玄関と入口、窓、全てに、外から塩を撒いた。

乾山写

箱書には「乾山写」とか「仁清写」がよくあります。とにかく数多ありますが、似ても似つかないというか、完全に解釈を間違えているものがあります。時には、確かに真作で存在する絵柄というかモチーフをやりすぎてビックリというもの見受けられます。最近、琳派と江戸琳派、調べているととても興味深い作品を見つけることができます。そこに解釈が生まれるのです。
もともと、茶の湯に乾山と仁清は深い関係がありますが、いつの間にか茶の湯の有名な作家たちが写しとして使用し、道具を売るためにとなんとなく合体してしまって、同じ仲間になっています。とても問題です。どんなに有名でも乾山や仁清は茶道の家元にはなれません。いや、彼らは時のものづくりであって、家元になる気はありませんでした。日本の芸術であって、流儀の開拓者です。絵柄の山も川も、野の草花も、美を追求した手段なのです。
「うつし」と「まね」は違います。かえって「写」と箱書などでうたっていなくても、使用する茶人が、写しや好みと解釈して、特定の客のもてなしでそう思ったものを使用し、その時の道具の由緒でそのように紹介する方が正しいと思います。という理由から箱書の「写」は信じてよいのか分からないといってよい。なので、ぼくはすすんで手元におきません。

正倉院の

正倉院の書蹟 1964
正倉院のガラス 1965
正倉院の楽器 1967
正倉院の絵画 1968
正倉院の紙 1970
正倉院の陶器 1971
正倉院の羅 1971
正倉院の刀剣 1974
正倉院の金工 1976
正倉院の木工 1978

宮内庁蔵版 正倉院事務所編 日本経済新聞社刊
ちょっと聞かれたので、、、懐かしい。
断捨離で、すべてとっくに手元にないが。いい本だった。

朧月楊柳之図 為三郎筆

西村芳海箱書、この方がお持ちだったのだろう。江戸琳派の静かで素朴な絵。おそらくこの絵は写真では再現できません。この付近根岸で描いたものに間違いない。其頃は「柳通り」はなかった、文彦の地図では「あんらくじよこ丁」という名称だったが、おそらく柳の並ぶ風流な三業の小道の前身があったのだろう。突き当たりには現状のようでなく屋敷があって行き止まり其脇を音無川、御行の松、、、
月は正円で、1964年のオリンピックポスターのように左右ちょうどに堂々と。しかし幽玄な姿をしている。これが琳派。重要文化財の[発色のよい群青と金泥で描かれた渓流のねっとりとした表現]とはまた違った効果を金泥で試みている。なんとも言えない存在感。
それに対して、柳は写実的な描写で、しなやかな三本の絡んだ枝と葉一枚一枚が今にも風になびきそう。楊花はひとつひとつかわいい。瞬間的に決まった完璧な構図、空間がかなりあるのに「菁々其一」の落款と「祝琳」の白方印の位置が幹の上に重なっていて、緊張感あり、極めている。こんな絹本は見たことがない。この一幅で精神が統一でき落ち着き、張り詰めた室内を作る。1858年に63歳歿、ということはちょうどぼくが生まれた百年前か。不思議な絵だ。「鶯の舎主人」はいわゆる「御歌所」の寄人で、当時一級の文化人の一人。いろいろな作品を目にする機会が多かったと思われ、よほどこの作品を気に入ってられたのではなかということです。

「鶯の舎主人」はどういう人だったのだろうか?岐阜の関というところにいたらしい歌人、、、このような絵を持っていたとは。

「コロナ前」「コロナ後」

ここのところ感染者が極端に減っている。こう言える日がきたのか。そうなることを願う。
[ 戦前には、両親をはじめ大人たちが過去のを語る時、「震災前」「震災後」という言葉を口にした。東京に住んでいる者たちは、大正12年9月1日の関東大震災を時間の大きな節目にしていた。それが私たちの世代になると、大東亜戦争と称された戦争が敗戦によって終結した昭和20年8月15日がそれに相当し、「戦前」「戦後」という言葉を使う。…] 吉村昭『東京の下町』p.220

おかえりモネ

とうとう最終回が終わってしまいました(ロス百音)。当初、母と見出した時はこのような気に留めるドラマになるとは、正直思っていませんでした。震災にあった人で同種の心に傷を負った者でなければ、理解できないかもしれない部分が多く含まれていることに驚いています。それにしても、よくこのように毎日何かしら引っかかるように朝ドラに仕立て上げたものと絶賛したいです。数年前に三陸の若い海女さんのドラマもありましたが、同じように東北の被災をテーマにしていたのに比較にならないほどの出来だと思います(話題だけで、あまりにくだらないので見ていませんでしたが)。
実際ぼくの場合は、この主人公モネとは逆のローケーションなので、また違った複雑な内面の部分があると思いますが、とても興味深いです。
1.
住人として被災しているが、他の人と違って、偶然その時にその場にいなかった。=同じ被災者でも完全に線引きされます。後で、駆けつけたが、明らかに周囲の人とは違う(差別を受けました)。
2.
ぼくの場合は、その時以降、上司からパワハラを受け続けます。そのような中、当時の「市民大学の責任者」でうちの大学の代表でした。市役所の(災害後なので廃案にするつもりでいた)担当者と市内にある他の二大学の担当者と尽力して、なんとか続けることができました。「何か被災者のために現地(ぼくも住人の一人と思っていましたが、そうではない)でできないか」を探していた毎日。
3.
最終的には、退いて同じように故郷に戻ろうと決心します。ぼくの場合はモネとは逆に東京に。創設に参加した大学を後に。しかし裏切り者扱いを受ける。
4.
そして、本題:教師と現場の話。ぼくは地震と同時に教室で教えていたわけではないので、家族と比較はしませんでしたがしかし、被災地での教員は実にきつい。正直逃げ出したくなる。被災後じわじわと、違った意味で現れてくる恐ろしさ。誰にも話せない。

今となっては、大学で教えていたことは遠い昔のことで、今の自分の生活と切り離しているつもりでいたが、そうではないとまた再び再確認し、いろいろと気づかされた。あの経験がその後の人生でいろいろな意味でよかったのだと信じるしかない。放送されていた毎回、忘れかけていた懐かしい細かい心の動きを感じることができて、とても有意義な半年でした。「おかえりモネ」に多謝。それと気象に関わるという職業の不確定さも相まって興味深かった。俳優も全ての方がとても良かった。ぼくが朝ドラでこのように感じたのは本当に初めて。

大槻如電宛

高田忠周書簡と肉筆の書が手に入った。ヤフオクで偶然見かけて、うちのアーカイブに。ちょっと興味深いのは、この手紙はうちの近所から近所に送ったものだ。実におもしろい!このような消息が残っているとは。
封筒の切手が剥がされているので、正確な年が不明なのが残念。竹山が大正14年から昭和5年ごろまで東京府日暮里町字谷中本175番地に居を構えていたことは奥付などで知っていたが、この印は!確実だ。それも文彦の兄の如電ともこのような交流があったとは。この辺一帯は文字天国だったのだと。
なお、『五體千字文』奎文堂、1880年刊。有名な『五體字類』西東書房、1916年刊が後に大ベストセラーとなる。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/853475
http://seitoshobo.jp/gotaijirui.html