兼中斎筆。心落ち着かせて、初めて手にした茶掛(初心)との対峙で濃茶自服。
「一つのことを静かに成し遂げたものは、大きな世界を掴み取ることができる。自分という一曲をやり抜くとそれ以上のことが見えてくる」ということであろう。
『日々のけいこ』に掲載されている長生庵にある竹田益州の書の写しであろうか、いつ見ても滲み入る。

兼中斎筆。心落ち着かせて、初めて手にした茶掛(初心)との対峙で濃茶自服。
「一つのことを静かに成し遂げたものは、大きな世界を掴み取ることができる。自分という一曲をやり抜くとそれ以上のことが見えてくる」ということであろう。
『日々のけいこ』に掲載されている長生庵にある竹田益州の書の写しであろうか、いつ見ても滲み入る。




よくも言えたものです。=昨日の赤旗。
それはわかりきっていたことであって、いまに始まったことではないと思いますが。オリンピックはどうなるのでしょうか、コロナで傷ついている人々なんかまるでおかまいなし。菅の保身も全く同じく。「all現状しがみつき族」
pp.54,55今回の細野さんと鶴瓶の連載がとても興味深い。 「100%受け身」=ぼくは大学の教師を辞めてからこれに徹していた。ところが昨年から出版社を始めて、誘うことがある。これが間違いなのか? 笑。それにしても大瀧さんのボソッと言ったことがイイ!
偶然だったが、とてもおもしろい落款。一本の細い線でなく薄墨を使って外隅(そとくま)で富士山を描いている。それは一息で富士講の象徴ともいえるはっきりと不規則に三峰形にして、周りの暈しと彩色との滲みによって微妙な立体感を生み出している。それにしても西村南岳の極メということは、やはり上野に関係しているのだろうか、、、うちから500mのところに住んでいた謎の絵師。江戸琳派が集っていた音無川ほとりを想像してしまう。大概の茶掛富士画賛の輪郭一筆は実につまらない。誰がはじめたのだろうか、、、やはり、この抱一のモヤモヤはワインガルトのそれに似ている。
Adobe、見習え。
筒茶碗。一客一亭。 基本中の基本を正確に。先生のkuden素晴らしい。やはり、稽古を繰り返すこと。これはリモートでは絶対に無理。技を教えるということ。
「差別」はしてはいけない。「区別」は必要。
「一 茶之湯ろくニなく候てハあしく候、たてなる事あしく候、、、(57条)」
『逢源斎書 上』の一文の駆け出しに、茶の湯の真髄を述べたものがある。江岑の美意識であった「ろく(碌=陸)」とは、たいらでまっすぐでゆがみがないこと、まっとうで慎ましやかで目立たない、いわば麁相(そそう)の美。
それと対極にあるのが「たて(立テ)=伊達(だて)」無闇に派手に見せること、古田織部と金森宗和の茶の美。織部はひずんだ造形の道具を好んだ。このような美意識は、普通でない姿「異風異体」あるいは人目につくような変わったことをする「かぶき(傾キ)=歌舞伎」の美ともいわれ、流行りのアート作品にも通じる。宗和も同じく、野々村仁清の手になる優美で華やかな茶風で「姫宗和」と称された。現在もこれらの流れは色こく継承され、理解しやすい茶の湯の美の代表とされている。つまり江岑は「ろくでもない」と言い放っている。
「元々、会長職に未練はなく、いったんは辞任する腹を決めたが、武藤敏郎事務総長らの強い説得で思いとどまった」って? 謝罪したって、撤回したって、根本的に不適格な人。やりたくないなら自主的にやめろ。