今月号も先月に続いて良い。「吸茶」のこと。濃茶は飲み回しであって「各服点」ではない。先日の裏に対しての答えは、天晴れ以上!
うちでは毎週、妹と一客一亭の稽古。もう半年以上続いている。当然、一碗を共有。
今月号も先月に続いて良い。「吸茶」のこと。濃茶は飲み回しであって「各服点」ではない。先日の裏に対しての答えは、天晴れ以上!
うちでは毎週、妹と一客一亭の稽古。もう半年以上続いている。当然、一碗を共有。
p.9の内田樹氏のコラムはとてもいい。
「大学人」=サラリーマン
「学者」=職人(ギルド)
まさしくこれだ。おそらく今は前者しか残れない。ぼくが大学をやめた多くの理由のうちの一つでもある。ある日、ペーペーの事務方から指図=命令を受けた。「教授会で決まったことだから、、、(当時の教授会はすでに全て事務方が作ったシナリオ)」と言われ、ぼくはそれをお前から押しつけられる覚えはない。完全な暴力であった。本当に腐った大学であった。何のためにぼくは当時デザイン教育を学生のために追求していたのだろうか。全てを疑った記憶が蘇る。
p.11の「すがすが(菅菅)しい=うさん臭い」という浜氏もまたいい。
久しぶりに装丁をした。松山さんがまだ学生の頃、この研究のことを知って、、、時空を超えて、觀宗とのコラボレーション。
しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう
一休の書であまりにも有名。
もろもろの悪をなすことなかれ
もろもろの善を奉行し
自らそのこころを浄くせよ
これ諸仏の教えなり
道徳的で、基本中の基本。おとなしいよい掛物と出会えた。おそらく大徳寺169世墨蹟、ぼくの見立てだと19字のうち15の文字は確証。真筆だと思う。生ぶ表具もいい状態で二つの落款の印影も一致。贋作だったとしても、すごくいい(このぐらいの書になると極めがないものは贋作と考えてよい)。これは素晴らしい贋作w
今朝の日経朝刊に小さな広告を撃ちました(最終面の一番最後に)。みなさん、できましたら、書店=街の本屋さんに注文してください。よろしくお願いいたします。
注文窓口として、BookCellar、https://www.bookcellar.jp/ どうぞこちらへも。
今月号の記事はとても良い。しびれる。猶有斎が即中斎のを引用している。1939年雑誌『わび』に掲載、あまりに共感したので引用させていただく。
「茶道においては、完全なものより不完全なものにその貴さを見出さんとする傾向がある。具足したものよりも不具足のもの、満足せるものより不満足なものにより以上の価値を見出す態度である。これは侘びという精神にも大いに関連してくるが、これと相関して考えられるのは、近時物資の節約が叫ばれる折柄、各人がお互いに自粛してその目的を達せねばならない。不自由を忍ばねばならない。しかも不自由を単に不自由として忍だけではいけない。不自由の中に自由を見出さねばならない。不満足の中に満足を覚えるのである。不自由を単に不自由として消極的に耐え忍ぶのではなく、不自由の中に積極的に満足を感じて、充足を覚え楽しさを感ずるのである。これが茶道の態度である。
平凡なことを平凡にやってのけるには、平凡以上の力がいる。平凡なことを平凡にして、しかもそこに自らの妙味を見出すことは、一朝一夕ではできない。これを悟れば、すべての日常のことに無限の滋味が湧いてくる。一度縁あって茶道にいそしんだ人々は、茶道の修練によって、この境地に達して頂きたいと思う。」
昔から、茶の湯の宗匠とは何者なんだろう、、、
僧侶のようで僧侶ではない。
武士のようでそうではない。
貴族のようでそうではない。
芸術家のようでそうではない。
演出家、演じ手のようでのようでそうではない。
料理人のようでそうではない。
書家、水墨画家のようでそうではない。
職人のようでそうではない。
教師のようでのようでそうではない。
目利き、鑑定士のようでそうではない。
花は生けるが華道家ではない。
一昨日、また負けた。やはり自然と気の迷いが最後に出るようだ。
普通は「想像上のダルマの肖像」の掛けものなのだけど、書のが珍しく出た。それも天祐筆、大亀の箱書付きで二重箱。すごい! 読売新聞社の本に載っているのより崩れ方が好み。特に「圓」の字が不思議、なので欲しかった。
難を言えば、落款しかない(署名その他が書かれてない)。それと表具をやりかえているみたい(時代箱の箱書もちょっと?)。それらの点で高額になってくると、ぼくの場合ブレが生じる。それにしても、二回も終了1秒前で、入札してきて高値更新するすごいテクニックの奴(自動入札の設定なのだろうか)。残念だけど、まっ、あれは高過ぎだな。
版元ドットコムに掲載しました。ようやくここまで漕ぎ着けました。長い道のり、、、直取引代行トランスビューは素晴らしい!
浜矩子氏の言う通り。スカ、つまり空か、外れ、だまされる、失敗。
江戸初期の棗。太字の了々斎在判。
盛阿弥初代は千利休のどのような塗師であったのだろう。その頃は十職は存在しなかったし、後に名付けられた利休形ではない形だったので所持することにした。蓋が浅く、身とのプロポーションが明らかに違っていて、合口端の位置がとても新鮮。とてもゆったりとしたふくよかな佇まいの棗。
ちりに近い板には小さな「盛」の針彫りがきちんとある。三代続いていたらしいが、後世の後彫りが多いとみられ、確証のある作には乏しいらしいが、そのようなことはあまり気にしない。とにかくとても古い黒棗で、黒のようだがほんのり飴色、とても使われた様子で気に入っている。