桜守

「生中継!令和を彩る京都の桜」
COVID-19で、今年の京の桜を愛でることのできなかった人への贈り物。桜守の素晴らしい話、それに対して、茶人と称する輩。とても恥ずかしいふるまい。人として茶の湯の深さを知るべきと思う。

啐啄斎/不寂斎宛消息(1765年ごろ)

素晴らしい!美しい字で意思がはっきり記されている。
消息は全く選ばなかったが、これは別。ぼくも
この書面と全く同意の時に掛けることにしたい。
愈御平安可被成御入珍重存候。
然者此間得御意候節入門
之事ちょと御噂御座候。
然処●●翁春己来
不●等旁入門之義何連も
此節御断申達候義御座候間
左様御心得置可被下候。仍之
申達候。尚期面上候。以上。
  如月十九日
 尚々不及御報候。以上。
堀内宗心老 千宗左
   用●

うず‐ざくら

鞍馬の桜は散ってしまっただろうか、、、うちの蹲は鞍馬石。
言葉の響きがいい。うず=コマなので、ぼくは、桜としてでなく、ふさわしい客の時にはいつも使うつもり。
不仙斎が銘を付けたとても使い易い茶杓。共筒共箱のセンスが抜群、ものすごく美しい。
「鞍馬竹伐祭之竹を以削之 七本の内 長生庵」
櫂先剣先、裏に銘の墨筆アリ
丸撓め
直腰
切止4刀
白竹5寸

絶學

学問、知識を必要としない境地。
徹底的に仏道を究め、学ぶことを超越した状態。
=
中国の永嘉玄覚(665–713)が悟りの境地をうたわれた『証道歌』の劈頭:
「君見ずや
絶学無為の閑道人
妄想を除かず真を求めず
無明の実性即仏性
幻化の空身即法身」
行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静、体安然、縦ひ鋒刀に遭うとも常に坦々、・・
「無為」とは自然のままで、観察を絶ち、正道を守ることさえ忘れた、淡々としたという悟り超越の境地をいう。志を立てて何十年と艱難辛苦、竟ついに学するに学するの法なく、修するに修するの道なきところに至って、今まで学んで来た法も、修して来た道も、すっかり忘れ果ててしまう。
悟りを得た人は行住坐臥すべて正しい坐禅の境地であり、お釈迦様が悟られた如来禅そのものであり、絶対無為の大人格、絶学無為の閑道人の境地。至極のんびりした境界の人を「大閑(おおひま)のあいた人」という意味で「閑道人」という。
紫草野衲凍雲子出(196世/傳外)
寛文年間(1661–1673)三玄院雲甫首座、中興の祖
==
正法眼蔵(1231‐1253)「行持巻上」
「寒炉に炭なく、ひとり虚堂にふせり、涼夜に燭なく、ひとり明窓に坐する。たとひ一知半解なくとも、無為の絶学なり。これ行持なるべし。」

茶人論

珠光:極月冬木の雪、遠山に似たるか
引拙:十月時雨の頃、木葉乱るる時節に似たり
紹鷗:夏も越し、秋の月、紅葉に似たり
利休:早、冬木なり
偉大な四人の茶人たちが描いていた茶の世界と現代の違い。このようになるとは全く予想していなかったのではないか。違いというか根本が異なる。

令和2年3月号 同門

開封したら、本誌の前に一枚別紙が入っていた。新型コロナウイルスによる取りやめの案内。とても悲しい出来事。
異例!おそらく、30年見てきたけど、これは初めて。
記事に今年の東京初釜の写真、この問題を国内で大きくした張本人*が座ってる。今年はなんと正座している。とても滑稽。
*日本人の楽しみを奪っていく男

作意と作為

滾(たぎ)りたる茶=
他より、ぬきんでている茶・ひいでている茶。ひたむきに修行に励む茶。
ぬるい茶=
湯の温度が低い茶ではない。働きなく、間の抜けた茶。
「芸術などというあからさまな意識をもつことは、茶をぬるくすることになるであろう。」p.89

また音楽CDのデザイン

忘れてたぐらい前に、仕事をしてました。
「SEWN UP 2016–2018」
お断りしたのですが。結局福島さん、何回かうちにわざわざ新潟からいらっしゃって、熱心な方。茶を点ててさしあげ、お話をお聞きして、お引き受けした。今回はカメオ(友情出演)。デザインは福島さん、ぼくは整えただけ。
CDふたつになりました。なんとなくうれしい。
やはりScriptographer universはすばらしい! おもしろい!!
PS1のAbobe製Universをパラメトリック・タイポグラフィで自由自在に!!!
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写真は福島さんが送ってくれたものoriginal: