茶巾の代用?

先日のスレッドで書き込み、さらに追い打ち。
茶巾をscottie社のキッチン用ペーパータオル61カットに代用。サイズが丁度いい、おまけに使い捨てだって。ありえない!
絞る、畳む、茶巾捌きとは水屋での精神統一であって、麻のあの白い布にお点前の重要な部分、手の感触がある。
「茶巾は最も清いもの」それを扱って知る=割稽古。
代用品? 茶道は台所仕事と同じ? かつて先生は絶対台所のモノと茶道具を一緒にするなと教えてくださった。当たり前のこと。
それが、このままだと抹茶をただ飲むだけになってしまう。「社中の皆様に意見を聞きながら…」違うだろ!?

献茶?

昨晩、SNSに驚きの書き込みが。
焦って教室を再開した或先生の投稿で、「入室前に、体温測定、手の消毒、マスク着用は当たり前!茶巾、布巾は使い捨て。茶器、茶碗、茶筅、茶杓も、人数分準備し使い回し無し。点てたお茶を自服。」
こんな勝手な稽古は許されるのでしょうか?
マスクをして点てた茶を自服。生徒各人は神様でしょうか?
使い捨ての茶巾?小茶巾?裏なのでしょうか?
稽古の仕方は、今の宗匠の猶有斎がお決めになること。
茶の湯は悠久の時を超えてきているのです。軽率な行動は慎んでほしい。この事態を家元は慎重に考えていると信じたい。只待つこと。

茶室で点てる茶とは違う記号:

この場の和紙のマスクは手造りのようです。俗世の塵にまみれた人にではなく、神仏に奉納なのですから、清浄には穢れを嫌うという人の息に対して表したサインです。

令和2年6月号 同門

巻頭の即中斎筆、山水有清音(さんすいに せいおん あり)
左思(さし)250–305の西晋の詩人の『招隠詩』の一節。
「楽器を用意するまでもない、山や川にさわやかな音色がある。どうして歌を謡う必要があろうか、、、」
また、『宏智禪師廣録』に「繞籬山水有清音」(籬を繞る山水に清音あり)とある。
つまり、下手な造作を加えないありのままの世界のことであって、山や川にも自然の奏でる清らかな音楽があるの意。決して、清めの水についてうたったものではない。誤解を生じやすいのではないか?
八ヶ岳の山水を想って。

シャルル・ペイニョ『タイポグラフィの美しき時代』完成

特装本(complete edition)をお待ちの方々、大変お待たせいたしました。ようやく出来てきました。カバーの活字の刷りがなかなか乾きませんで、うちで印刷したまま触らないで2週間、念のためさらに研究社印刷の乾燥室で3週間ねかせて、今日晴れて製品に。異常な本です。これでこの本は完全に仕上がりました。本体になぜ図版が一点もないのか。カバーに実物の文字があるから。本文に出てくる最も重要な書体BIFURとUNIVERS、もちろんD&Pの金属活字による温もりです。揃って手にするとその当時の美しさを味わえる。(もちろん本文の内容に集中して欲しいのでということですが。笑)
あと、銀の厚紙に丸い穴、、、本文のHenry、、、1983のクロス、、、ま、今日はこの辺でやめときましょう。

厚労省:新型コロナウイルスを想定した「新しい生活様式」を公表しました?

5月4日に、新型コロナウイルス感染症専門家会議からの提言を踏まえ、新型コロナウイルスを想定した「新しい生活様式」を具体的にイメージいただけるよう、今後、日常生活の中で取り入れていただきたい実践例をお示しされました。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_newlifestyle.html

茶道に直接関係ある事項:
– 人との距離*は、できるだけ2m(最低1m)空ける?
– 屋内より屋外を選ぶ。=野点を優先する。
– 会話をする際は。可能な限り真正面を避ける。=ある種の小間はNG。
– 症状がなくてもマスクを着用。=宗匠の献茶のように、普段の点前も亭主はつけ、客はいちいち外しながら?
– =客が帰ってから手は洗うが、水屋で顔は洗わない。着替えとシャワーも茶事ではすぐには?
– =水屋に石鹸? 手指消毒液の設置。作法に加えるのか?
– =会記に参加者の名を明記?
– =茶室の換気。
– =稽古及び茶会の前の体温測定、健康チェック(発熱や風邪の症状)。

と、いろいろあるが、まずは*Social Distancing Communication Platformでしょうか。このことにより距離的な、亭主と客の関係、客と客の関係、が完全に壊れます。例えば、正客が躙口を開け、茶室を見た瞬間に入ってからの行動を瞬時に判断構築するわけですが、それがくるう。つまり次客以降の行動はすべて、今までのようにできず、おかしくなる。どうするのでしょうか? そして、男同士客の濃茶のいただき方、完全にNGとなります。

など、この御布令が出てから、頻繁に、先生とメッセージでやり取りをしているのですが、多難すぎる。仮にすべての対策が今出来上がっていたとしても、その新しい作法をどのように全国の茶道の指導者たちに伝え、普及させるのでしょうか。気の遠くなる話です。というのも、茶の湯はそのように守られてきたもので、道具ひとつ扱う様 (おくこと、もつことなど)そしてその流れがひとつに統一されてきた。つまり、各々独自の判断による作法を禁じてきたからです。これが、ひょっとすると近未来こわれる恐れが出てきました。つまり、華道のように(タレントみたいな茶道家が登場するかも)なってしまう。断腸の思いです。

追記1. 濃茶を一人一人に点てる(練る)なんてこと、TVで発言した輩がいたらしいが、とんでもない。そんな重要なことを個人が勝手に決めて行っても良いのか。ありえない。
追記2. 茶道では、各道具には最小限の触れと動作、扱いも細やかであり、COVID-19対策には応用できることもある。

久田宗全の赤樂

写メでは絶対に感じとることができない。
うっとりする。とても落ち着いた色で、人の肌のような茶碗、持つと手に愛おしいの小振半筒。5月6日が命日ですので、1707年のちょうど一昨日没。しかし、この茶碗は確かに今でも呼吸をしている。湯を入れる前、古い茶碗なので、とても神経を使う。ノンコウとはある意味違ったよさを持つ茶碗だと思う。不及斎書付

堺湊焼古もの赤と交互に使っているが、この味わいも好み。===あえて、ぼくの茶碗のことを少し載せた。非常事態が解けて、早くこれらにふさわしいお客がいらっしゃることを願ってやまない。茶碗を選ぶという意味は、その時唯一お客の口に触れる道具を見定めること、真剣勝負。

#一服チャレンジお茶碗バトン

ひどい有様。「利休さんもSNSしていたでしょうね」なに寝言言ってんでしょうね。この時世を真剣に考えてほしい。
このことに関係するようだったら、薄っぺたい情報が理解できるし、全く理が通る。茶碗の情報は、一般と同じレベルで軽く外には出してはいけない。(おそらくある基準があって)最小限であるべき。このようなひどい風潮を作るなんてもってのほか。

令和2年5月号 同門

毎号、楽しみにしている。
昨日届きましたが。24ページが16になってしまった。ページ数だげなく、内容が薄っぺらい。
このようなときこそ、家で茶の湯ではないのか(拙いが、ぼくは、毎日点てている。母の分と自服)。何か気の利いた一報があるのではないか。如心斎だったらどうするだろうか。
風炉にかえた。そして気温も急に暑くなった。静かな茶の湯のひと時、いろいろ思いをめぐらせ、このようなときの心の支えとなる。
追記:まだまだだ。思いをめぐらせてはいけない。無一物。坐禅と同じ。毎日、同じことの繰り返し。

本来無一物

時勢が悪すぎる。このようなときは戒め。
ほんらいむいちもつ 慧能禅師『六祖壇経』
中国禅宗の初祖達磨禅師から法灯を守る五祖の弘忍禅師の門下修行僧が一同に会した。そこで弘忍から「自ら会得した境地を偈にして示せ」と告げられたとき、これに答えて示した有名すぎる禅問答。
神秀上座『身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し、時時に勤めて払拭して、塵埃をして惹かしむること莫れ』
=からだはすばらしい悟りの樹、こころは透明な鏡のようなもの。いつももせっせと磨いて、埃で汚さないようにせよ。に対して、
慧能行者『菩提、本樹無し、明鏡も亦、台に非づ 本来無一物 何れの処にか塵埃を惹かん』
=悟りなどというものはない、鏡などという立派なものもない。もともと何もありはしないのに、どこに塵や埃のたまるところがあろうか。と、自分の心境を吐露した偈。
「本来」は、本質的に、根源的に。「無一物」は、有と無の両方を超えた次元。したがって、有も無もそこから出てくるような根源であり、「無一物」の世界があるとかないとか頭で考えるのはなく、人が何かにひたすら打ち込む姿がそのままを「無一物」とし、自分の中で、とらわれない心で、豊かに生きろと示している。臍下の奥からの息のような宙寶宗宇筆で。
寶でなく、もちろん宝でなく、寳のよう。1759–1838、いつの書か?