利休が所持した「瀬戸天目」に添う「黒塗天目台」と同手の溜塗台で、高台内側に宗旦が花押を朱書きしている。久田不及斎箱書。どこかで展示したらしい形跡。それにしてもこの形がとてもいい。供茶には必需品。向井周太郎先生の追悼のために出してきた。少なくとも毎月一回どなたか故人の法要に使用する。
実は、今年5月に菩提寺の佐久の貞祥寺で晋山式と荼毘式が行なわれ、午後の儀式にこのような!やはり禅の茶礼と関係があるのであろう。写真は咄嗟に撮影したものの一部を拡大。台の一部がそっくり。
江岑消息(つけたり)
以前判明していた「茶をいただいたお礼に」それ以外の部分を読み下していただいた。
〈裏封〉奥方様 江岑宗左
先日御□存候。其後
便以物淋申上候。
我等近日江州へ
罷下申候。先日よき
時御茶被下千万
忝候。罷下付
今般用所多候。
何方御同行申上
指延申候。其内可
得貴意候。
一 此一箱宗見ゟ
貴札遂朝会
被申習候由申上候。
先日ハ多礼被下存候。
以上
十三日 宗左(花押)
要約:近日近江に行くこと、先日茶を頂きかたじけないこと、用事がたくさんあり、母 真巌宗見の箱のことなどをのべているようだが。まだ、詳細はわかっていない。
銀地竹中次
とうとう手に入れた原羊遊斎作。医師であり茶人(宗偏流時習軒派、それ以前に遠州流を学んでいたとされているが、石州流も学んでいたともいわれている)の神谷松見箱書。立上に花筏蒔絵(字休菴初蒔絵)、内朱。知られた江戸時代後期の江戸蒔絵師による茶器。長年探していたもの。その様なものはないと思っていたが、やはり存在していたのか。他流派の道具だが、ここ音無川の辺りで物語が展開する前の仕事のようである。凄い蒔絵。地ずり(盆付)ちりの近くに「羊」の銘が微かに毛彫されている(これは大概見落とす)。羊遊斎の有名なものは外観がド派手な印籠だが、この茶器は全く地味で、ちょっと見、蒔絵の凄さがわからない。そこがとても気に入っている。
羊遊斎の生涯については不明な点が多いが、文政13(1830)年に藩主松平頼恕からの制作を命じられ、藩主の御用品を手がけることになるので、確実にそれ以前の作と考えられる。おそらく1800年から1809年の間の作と断定できる。というのも、松見は1800年に78歳、1809年に87歳歿。47歳下の羊遊斎は31〜40歳で、抱一は39〜48歳。実に興味深い。いつどのようにそれぞれ接点を持ったのであろうか。となると、羊遊斎はやはり50代?に根岸に出入りしだすのか、、、当時、神田下駄新道に住んでいて、根岸の寮は抱一の雨華庵と庭続きであったといわれている。抱一は文化6(1809)年に下谷大塚に寓居を構え、「雨華庵」の額を掲げているらしいので、まさしく、乙川優三郎著『麗しき果実』の話につながってくる。逸話でもその頃は名士との交遊に忙しく、工房では自ら蒔絵することはほとんどなく、腕の良い工房の職人に仕事をさせていたらしい。おそらく、当時の関係する人たちの流派はこの周辺に近いはず。そして、この茶入はご本人の手による貴重な若作であろう。弘化2(1845)年12月24日に没し、現在巣鴨の講安寺墓地に、墓石には自ら創作した丸に羊字紋、諡号「巍岱院照月更山信士」。
備忘録:『陸安集(りくあんしゅう)』
京橋三十間堀に住んだ材木商の岡村宗伯に始まる宗偏流時習軒派の三代に当たる神谷松見が延享2(1745)年、23歳の頃に編纂したもので、序文は師匠の時習軒二代 岡村宗恕(そうじょ)が書いている。宗恕に入門したのが18歳の時とされ(流祖宗徧も同じように18歳で宗旦に入門)、『茶道便蒙鈔』をもとに師である岡村宗恕と山田家三代 宗円から過去の宗匠方の伝聞に、注訳を加えたもの。時習軒及び山田家においても明治期までこの『陸安集』の筆写をもって皆伝とする慣わしがあったという。宗偏流四代 漸学宗也は三代 江学宗円の実子で、神谷松見から教えを受けた宗也はその皆伝の暁に神谷松見から陸安斎の号を授かり、八丁堀に茶室を構え、広く千家の茶の湯を教えたことにより、その当時は「江戸千家」といえば宗偏流を指すまでになっていたようで、これは川上不白が登場するまで続くことになる。
令和6年9月号 同門
やっと涼しくなってきた。しかし、やることでいっぱいの毎日。
「随類応同(ずいるいおうどう)」
なんとすばらしい。
習熟度の違うお弟子さんそれぞれに寄り添いいろいろな角度から指導していくことが必要です。…稽古場の教えを熟考し、…
まさしく、茶道場。
茶道アーティスト?
このような方が、茶道を壊していくのでしょうか。
深い歴史と茶人たちの積み重ねを、最も簡単に解釈されて、、、
「…私はお免状をいただいていないため、人に教えることは難しく、お茶道具も伝統的な茶室も準備ができません。…」当然です。ただ日々研鑽を重ねるだけです。プロジェクトやパフォーマンスではないのです。恐ろしい。
https://www.yomitime.com/who/252.html
月自画賛
不審菴の最も有名なお茶湯で、今日の家元制度の基を作り出した表千家「中興の祖」と呼ばれている7代家元如心斎の遺徳を偲び、9月13日に「天然忌」が営まれる。その天然は居士の道号法諱であって、円相の中心に自己を意味して書かれた掛軸が掛けらる。
円相になぜ「平常心是道」とあるのであろうか。一体いつ書かれたのであろうか。謎が多い書がきた。出会ってからちょうど一年、その宗匠の書かれた円相が、とうとううちに。了々斎箱書で「月」とある(完璧)。この円相は満月、うちのシンボルとなる。それにしても残り香のような「、、、、」が天然宗左と読める。実にいい。
初釜会記
掛物 惺斎敬翁宗左執筆「茶カフキノ記(1913)」(急遽変更)
濃茶 辰昔 詰:一保堂茶舗
薄茶 一碧 詰:吉田銘茶園(普段使い)
主菓子 寶ぶくろ 拾両・宝珠・小槌 鶴屋吉信
菓子は縁起の良い頂き物。他道具は2021年から変わらず。
うちは嶋台、振振、紙釜敷は、今後も使うことはない。
茶カフキノ記 残月亭ニ於(癸丑1913)
執筆は惺斎。即中斎執筆の茶カブキのお軸から約50年前の。再び家元書付「表具好ミ」のが手に入った。しかし、また予想と大きく異なった。やはり三人が当てているが、これもおそらく皆中者の正客*に、お渡ししたのでしょう。不審菴の(高木貞正宛)領収書はそのままに。家元利休忌の茶カブキの客数は10名と聞いたことがありますが、12名とは、当時どのように実施されたのでしょうか。それにどなたが亭主だったのか。まったく想像ができません(そこが楽しいのですが)。それも大正2年ですから、明治39年の火災から、7年後の3月27日、惺斎50歳。即中斎(覚二郎)12歳。
荒圃* 全
又三郎 一
与三郎
久弥 全
雲子 一
さた子 全
小泉
芳子 一
薫子 一
天満
琴江 一
冷月 一
この頃から、内々にどころか年中行事のように、し始めだしたのだろうか。茶道の近代化に向けているようでもある。当時は1910年再建の目新しい現在の残月亭でということになる。年始から興味深いお軸を掛けて濃茶をねることに集中する。
大福茶
2024年、あけましておめでとうございます。
元日明けは夜咄のようにして、最後に自服を。かぁちゃんもち(戸頭農場)を七輪にて焼き、雑煮を祝う。
掛物 山﨑宗鑑書「初祖菩薩達磨大師」(禅の初心を込めて)
釜 古天明小丸釜 山口浄雄折紙
炉縁 久以造 沢栗木地
香合 如心斎作写 傳来独楽紋(青釉) 惺入造 惺斎在判
蓋置 竹節 影林宗篤作 兼中斎在判
茶入 わし棗 了々斎在判 仕覆:蜀江錦写シ
茶杓 随流斎作「雨請」共筒(随流斎) 如心斎箱
茶碗 朝日焼 鹿背茶碗(辰にみたて) 元治好
蓋置 隅田川焼千切 7代白井半七造
濃茶 小倉山 詰:山政小山園 佐久間宗信好
菓子 浅草美家田(東日暮里一丁目) 人形焼
つきもの:利休好手燭
わし棗
利休の秘蔵といわれる黒の鷲棗(わしなつめ)は、取り置きするときに握りこむように鷲掴みにする習いから呼ばれている小振りの尻張棗とされている。盛阿弥作の本歌は現存していない。利休が使用した記録もない(切腹に向かう際に懐に忍ばせたという説も)。したがって想像のかたち。仕覆は蜀江錦で、宗旦が有楽斎を招き盆点をされた記録があるため、型破りな棗とされる。おそらく、上から手の甲を水平にして五本の指で鷲掴みに取り置きする扱いで、この点前は、稽古ではほとんど習わない。
うちのは了々斎在判箱書きで、このようではなく利休形の黒小棗の写しに近い。いわゆる尻張形ではなく、蓋が丸く尖っていないため茶杓がうまくのらないこともない。謂れからすると、「この上なし」の意をもって、鷲掴みをしてから、蓋を開けるためには普段の平棗のように自然に持ち変える手が加わると、男点前の流れが似つかわしいのかもしれない。