とても珍しい額が手に入った。宗匠の手紙、ハガキで「毎日楽しんで待つているのに手紙がまだ来ないので残念至極。反古張を開けてまつているから精々御早く願います。(まる左) 名越令夫人さ満」とサインペンで走り書きしている。よくある昔の軸装のこのような宗匠のメッセージは巻紙に筆でササッと綴ったものだが。それにしても春芳堂の額装は素朴だが、なかなかいい。現代はこのようになったという証。
この「反古張り(ほごばり)席」は不審菴祖堂にある茶席。啐啄斎好の一畳台目、一畳の丸畳と台目畳(向板)が組み合わさった二畳の最小の茶席、見てみたい。
この「名越令夫人」とはおそらく京都三条釜座(かまんざ)の釜師で、京名越家11代名越昌文の奥方か?先祖の名家名越11代名越善正の子が京初代(名越三昌)と江戸初代(名越家昌)に分家し、京名越家は代々「弥右衛門(やえもん)」を名乗り、「浄味(じょうみ)」と号した。期日や宛先が確認できないので、詳細は分かりませんがおそらく、江戸名越家の家系ではないと思います。
筒井伊賀
とうとう桃山時代を代表するやきものがやってきた。了々斎の花押と「ころ丸」の銘が朱で底に書付けてある。
やはり、水指はこれ。古伊賀は、俗に「伊賀に耳あり、信楽に耳なし」といわれる。特徴とされる箆目(へらめ)が立ち、破調が程よくある。静かな荒々しさから曽我の五郎丸なのだろう。
簡単に、伊賀焼を。天正12(1584)年古田織部の弟子であった筒井定次が伊賀領主となったとき、槙山窯と丸柱窯、上野城内の御用窯などで茶陶を焼かせたとされ、これを「筒井伊賀」と呼ぶ。慶長13(1608)年に改易となったが、この間の名作が五島美術館所蔵、重要文化財の「破袋」であり、焼成時に焼台に底がめり込んだため、偶然歪みができ、大きな破調の美の代表となった。それが桃山時代の茶人の好みともされている。
古伊賀でも、二代領主の藤堂高次のときの「藤堂伊賀」は小堀遠州が指導して製作したもので「遠州伊賀」といい、以前とは対称的に瀟洒の陶器に変化した。そして寛文9(1669)年七代高豊に陶工は信楽に去り、伊賀焼は衰退した。その後、宝暦年間(1751~1764)に「再興伊賀」と呼ばれ、古伊賀とは異なる施釉で日用食器が中心に復活、別物。
江戸の茶道具三選
一、大西定林造 姥口平丸釜
江戸中期の幕府御用を務めた釜師(初世浄林の弟の子)、江戸大西家の祖。具体的な歴史的建造物や場所は特定できないが寛永年間、古田織部に従い、父の二代浄清と共に江戸へ下向した定林が、江戸に留まって興した。釜の型は歯の抜けてしまった老女の口に似て、口縁部が内側に丸く落ち込んで、つぼまった形の口造りなので、姥口と呼ばれている。浄長(十三代清右衛門)極
一、三浦乾也造 竹図四方蓋置
明治初期の江戸の陶工。江戸末期には伊達侯に招かれて松島寒風沢に造船所を起こし、明治に入り小田原に窯を開く、その後東京に戻って葛飾区小菅で煉瓦を製造。のち深川高橋付近に陶窯を築き、1875(明治8)年より向島長命寺内で製陶した。陶法は尾形乾山風を慕って、西村貌庵から乾山伝書を授かり多く乾山作を模倣した。「乾也玉」と呼ばれた根掛けやかんざしの珠が流行った。乾山を称しなかった理由は謙遜からとも、独自の見識からともいわれている。
一、輪王寺宮天真法親王筆 和歌色紙
「晴ゆくか雲と霞のひまみえて雨ふきはらふ春の夕かぜ」(風雅和歌集、徽安門院)古筆宗家6代の古筆了音が認めており、天真法親王は後西天皇の皇子で、乾山を庇護した公弁法親王の兄富にあたる。
抱一宗中合筆
牡丹と蝶、このような合筆があったとは。驚嘆。「東都名家寄合筆畫」と同時期か?なぜ焼けなかったのか、京にあったのか!
牛か丑か
表千家と牛の関係、まず「牛頭天王(ごずてんのう)」かなと。祇園精舎の守護神とされ、京都東山祇園に鎮座して祇園信仰の神ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られているからだ。この掛物は、5月18日に上御霊神社の祭礼に先立ち、厄除けのお札として、上御霊神社から下符された「牛王宝印」の護符を松風楼の床に掛けられ、庭内の松で作った松ノ木卓には、左の神折敷に「丸餅」と削った鰹節を供えるのが習いとなっているらしい。これは、表千家内弟子が務める仕事のひとつ。このことを門下に表しているのだろうと思った。また、俗に「オカラスさん」とも呼ばれるこの熊野牛王神符は、素盞鳴尊の別名であり、カラス文字で書かれた熊野三山特有の御神符。牛頭天王の御名の一部を受け誕生したと云われていて、これまで多くの武将の誓紙、連判状に使われたことでも知られる。
しかし、この扇は円相の中に普通の文字で「牛」と書かれている。円相と十牛図に関係があると言われていることを思い出した。常に第一図とされる尋牛(じんぎゅう)は、私たちが円のように完全でないことを自らの中にそれを見出しているから、いつでも何かを求めている。仏道に志しその答えを求めたり、生き方を模索しようとすることを「発心」という。これは、何かに導かれるように、あるいはきっかけでつき動かされるようにして茶道を始めるとき、人それぞれに動機がある。しかし、やはり茶道に引き寄せられる己がそこにあることを知る。茶の道場の門をくぐるとき、それはまさしく久田尋牛斎と即中斎が関わることに繋がるのであろう。
この掛軸からの推測、6,5寸の扇であったらしい。それも木版の。これは現在のオフセット印刷された稽古用扇子の前身かもしれない。つまり稽古中の結界。正しくはこのことであろう。究極の記号だ。茶席ではこの扇子は開かないのである。なので、持ち主がこのように表装したのだ。完全に内在を意味していた。でもやはり、牛に梅で、新年に掛けたのであろうか。
宗がつく名前
千利休は「宗易」であった、、、本日、雅号が先生に届きました。ぼくは「宗字(そうじ)」と名乗れます(おじいちゃんは彫金の雅号が「一香」、家系ではそれ以来)。表千家講師の茶名、宗名とも云うらしい。とてもうれしいです。思えば、平成元(1989)年に同門に入りまして、35年余、ようやく逆リスキリング達成。稽古場としては登録していませんが、とうとうここ字休菴にて活動開始です。これで、晴れて今から、胸はって生徒を持つことができます。しかし、作法や所作を教えることは、デザインとは訳が違います。実は、ぼくの茶道は、先生になることを目指してしていたのではありません。逆に全くその気はなかった。大学の先生でコリゴリ。でも、なぁんと今習っている先生から、「小泉さん、生徒をとったら?」と言われてから、なんとなく、その気になってきて、この流れになってしまった。実は活版の先生はとても類似している部分がある!そこを徹底的に追求していきたいと思います。とても興味がある点なんです。その真反対の例は、かつてバーゼルで或学生のことをワインガルトが「デザインをやるのはよいが、ここ(バーゼルの学校)には不適格だ」っと言っていたことを思い出す。
このことをわかりやすく説明、ン〜〜〜、極端な例、あの細川不東の茶碗が好きな方にも点前を教えなければならないw つまり、趣味嗜好思想が全然違う方にも点前は教えることができるということ。デザイン教育とは全く違うのです。複雑で説明しにくい、そういう領域に入ってきました。
このことは全般的に、茶の作法ということがいかに偉大かわかる。つまり、全く違う好みの方も、同じ流派であれば、同じ作法の点前をするのです。うちの社中は、少人数でそうはならないと思うけどw、、、ということで、発音的には(大好きな)宗二、(毎日している)掃除、ではありません。とにかく最近、とてもゆる〜い生活になってきてるんで、よい刺激です。
WH叢書『字休菴の栞』の発刊が遅れています。がんばらなくっちゃ。

豆腐自画賛
世の中は
ま売て四角亭
やはらか天
豆腐乃様奈
人尓奈れ人
「世の中は 豆で四角で やわらかで 豆腐のような 人になれ人」この句は大徳寺435世 大綱宗彦の『大綱遺詠』にあり、豆腐を題とした自画賛の掛軸で有名。絵はいやに尖った豆升の角にもかけているのであろうか、しかし、実際には和らかいのだと。今年の勅題の「和」にかけられることも多いのかと思う。しかし、即中斎が描く「とうふ」はそれとは違う。優しい。いかにも美味しそうな冷奴のような。茶家の宗匠が昔の大徳寺の僧侶の有名な軸とおなじく表すのはカバー曲の様で、とても多く見受けることができるが、これは珍しい。それにしても、お軸の状態が悪すぎる。この贈られた中島氏とは何者なのか?名古屋で出たものなのだが、、、
大好物の日本の豆腐は、中国のとは少し違うので調べてみた。起源ははっきりしない。しかし、明の李時珍『本草綱目』で豆腐を発明したとされている前漢の劉安のことがうたわれている。宋の朱熹の次刘秀野蔬食十三诗韵 其十二 豆腐詩に「种豆豆苗稀,力竭心已腐。早知淮王术,安坐获泉布」と、「豆まきも苗もまばらで、疲れ果てて心が折れそうになる。もっと早く淮王の術を知っていたら、春の布を掴むことができたのに」とあり、なんとなく関係しているのかなとも思う。
一閑張潤塗小棗
こころだに(蓋の甲) 滿ことのすきに 入ならば これもひとつの わびのたのしみ(身の胴)
了々斎歌書。ぼくの解釈:もし、心に誠意をもち道理にかなった茶の湯の道をしていれば、侘びの楽しみが見えてくる。
10代 才右衛門一閑造。初代一閑の作風に準じた作品を残す。初代の字「才右衛門」号、法名「釋実證」。文政13(1830)年6月20日歿。
稽古用茶碗
正面がはっきりしたものに限る。
扱いや持ち方に癖をつけるためのもの、触ってしっかりと指にくるものに限る。
一つは京焼 三代中村秋峰造 柳絵茶碗。惺斎好ミにそっくり。正面がはっきりしていて、飲み口のところに、しっかりと柳の枝先がきている。超初心者向け。かたち、大きさは極標準。ところが、なんと先日割ってしまった…その代わりに、急遽調達、やはり京焼。橋本紫雲造 燕柳文茶碗。ちょっと安っぽいが、向正面に燕が一羽、とてもわかりやすい。乾山写とあるが、本歌は見当たらない。五代の柳茶碗は存在するが、あまり興味がない。それと、この茶碗は刷毛目がついているのがうれしい。ちょっと驚き、しかし、なんとなく風情があっている(本来は初夏の絵茶碗)。偶然、同じものが二つというのも稽古にはうれしい。
もう一つは膳所焼 岩崎新定造 祥ノ字筆茶碗、兼中斎書付。外観は高台脇正面の花押以外全くの白茶碗。お茶を点ててしまうと、見込みの内「祥」字が見えない。つまり飲み終わると飲み口の位置が正しかったのか確認できる。当て物のようでなかなかよい。かたち浅め、大きさは小振り、釉薬ツルツル気味。少し扱いにくいかな。
とりあえずこの二つしか当分使わない。初心者の稽古には樂茶碗は使用しない。
七石
昨日、初の生徒さんが決定しました。うれしい。さて、露地の石のこと:
露地に配置する主要な役石である表千家七石(ななついし)は普通、手水石・前石・小口台の石(腰掛石)・待石(客石)・踏段石・刀掛石(二段石)・捨石を指す。字休菴の七石はまだ設置していない中門をくぐると京都深草で採れる砂利の三和土に乗越石(亭主石)・待石(正客石、鐘聞石)・刀掛石・塵穴の覗石・蹲踞の前石・湯桶石(R)・手燭石(L)の順に並んでいる。
小さな丸い待石はバーゼルの住んでいたところで拾った石で、それ以外は全てここ小泉家の土地にあった先祖のをそれぞれの役に見立てて設置した。それらと手水鉢(鞍馬石)、石灯籠(長州産)、自作の関守石(止め石)といったところが客に対して活躍している。
まだ躙口開いていないときに喚鐘を鳴らします。小さな呼び鈴ですが聴こえたようで、ほっとしました。南部鉄のを茶室内床脇の天井に吊り下げてて、木槌のようなおばあちゃんの撞木で打ちます。生徒に茶席の準備が整ったことを知らせるものです。表千家では「大小中中大」と五点打ち、これは広間のようですが数は少なく!