大槻如電宛

高田忠周書簡と肉筆の書が手に入った。ヤフオクで偶然見かけて、うちのアーカイブに。ちょっと興味深いのは、この手紙はうちの近所から近所に送ったものだ。実におもしろい!このような消息が残っているとは。
封筒の切手が剥がされているので、正確な年が不明なのが残念。竹山が大正14年から昭和5年ごろまで東京府日暮里町字谷中本175番地に居を構えていたことは奥付などで知っていたが、この印は!確実だ。それも文彦の兄の如電ともこのような交流があったとは。この辺一帯は文字天国だったのだと。
なお、『五體千字文』奎文堂、1880年刊。有名な『五體字類』西東書房、1916年刊が後に大ベストセラーとなる。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/853475
http://seitoshobo.jp/gotaijirui.html

大槻文彦肖像

撮影1926(大正15)年 26×19cm 玉木金次郎商店(額縁・鏡看板・製作:東京市京橋区京橋2丁目4番地)の額入り。髯を蓄え卍の紋付姿で読書する大槻文彦翁、広く世間に知られた有名な写真。右下に「大槻文彦」白抜き文字焼き込みあり。仙台で大槻文彦翁を深く尊敬する人物が永年書斎に飾っていたものらしい。https://note.com/keioup/n/n67fdbb690db2

大槻三賢人

仙台藩医の玄沢、磐渓、文彦と三代にわたって、偉業を遂げたことの一部分を調べている。それは文彦が残した「根岸及近傍図」という地図に繋がる。なんとその地図にうちの先祖の地番が載っていることから発している。ご本人は音無川ほとり東日暮里4-22(現高野ビルあたり)、雨松軒が終の住処。ここで日本初の近代的国語辞典『言海』が執筆された。
詳細はこれからじっくりと。少しずつ解明してきているのだが、おそらく出会うだろう膨大な情報からどうしたらいいのだろうか。磐渓の書も手に入ったが(四書五経ではないよう、意味不明)。この肖像画は文彦が自身のコレクションをポストカードに、実に興味深い。ヨコ組の本が机上に!