初釜会記

濃茶 卯昔 詰:一保堂茶舗
薄茶 式部の昔 詰:山政小山園
主菓子 寶ぶくろ 拾両・宝珠・小槌 鶴屋吉信
菓子 きれいどころ 伊勢源六たちばなや
菓子はいずれも縁起の良い頂き物。他道具は2021年と同じ。

new year 2023

実は昨年の作品は何もないので送ることはできないのですが、急遽頭の中にある露地のコンセプトを即興で組版して校正刷りにて、竹尾の「クリエイター100人からの年賀状」展 vol.18のために作成しました。なので途中の段階です。見本帖本店(淀屋橋と福岡でも、各々違うヴァージョン)で実物の展示を、どうぞお越しください。用紙は「ヴァンヌーボV ホワイト」を使用(ご覧のように過去のポスターを断裁して、銀一色乗せて刷ったもの)。
今年から、プライベートのご挨拶をしたためた年賀状は数枚、全て「書」で一枚一枚。人生初の挑戦が始まりました。超緊張しますw

昨年詳細を書きましたが、とうとうハガキ郵送の年賀状は化石に近くなってきました(得意先の代理店から年賀状廃止のお知らせがメールで)。グラフィックデザイナーによるそれは、単なる自己PRであり、極端な言い方をすると、不動産のチラシのようなもの。「音無川文庫」は昨年、当初お願いした大工が蓋を開けたらリフォーム屋で、大工の腕が悪く、ボンドで柱を止める始末w 途中で判明し5月一杯で引き取っていただいた。そのようなことがあり、和文活版のスタジオの整備が頓挫し、予定していた作業が遅れたため宇野はこの新たなスペースのディレクターとしてスタートすることができていません。
ぼくはこの印刷物にもあるように茶の湯と今までの解釈を重ね合わせ集大成としています。まだまだですが、ご期待ください。

大福茶

2023年、あけましておめでとうございます。
元日明けは夜咄のようにして、最後に自服を。七輪にて餅を焼き、雑煮を祝う。

道具は一部昨年のを差し替えました。
掛物 千里同風 即中斎筆 (反戦をこめて)
扇 千里同風 即中斎筆 (反戦をこめて)
茶杓 随流斎作「雨請」共筒(随流斎) 如心斎箱
茶碗 黒樂 紫野焼 銘:帰雁 鶴亭造 宙寶宗宇箱
蓋置 隅田川焼千切 7代白井半七造
床 七官青磁鉢、姫石菖 (写真は差し替える前:翠巌宗珉筆)
菓子 三ノ輪橋相州屋 栗蒸し羊羹

peter-lukas graf_backstage

この人のことを全く知らなかった!船田さんがこのオリジナルの本を貸してくださった、、、なかなか内容も興味深い。
それと、この本のすごいのは、スイス人の先生の口伝で、日本人の手記がオリジナル。あと、ドイツ語版しかこの世にない。日本語は横組❣️
かつてバーゼル音楽院で教えていたのですね。追って細かいことを載せますが、とりあえず、一つ:
「音楽家になろうとしている人にとっては、、、自分自身を表現するという、人間の素晴らしい可能性に喜びを持ち続けなさい!そして、もしもうまく音楽を職業とすることができたなら、そのことを常に特別な恩恵に浴していると心得なさい!」

When I’m Sixty Four(Take2)3:01

64歳になった。Paulの曲。確かにWhen I get older losing my hair…
Will you still need me, will you still feed me. When I’m sixty-four?Whoo!cha!cha!hey!ぼくの人生はこのようにはならなかった。なんとかここまできた。何度も命があぶないことがあったけど、上出来中の上出来、大満足。でも、いつの間にかぼくを作ってくれた人たちはもうほとんどいない。
故郷に帰ってきて、最近、よく思う。ぼくは何者なんだろう?まだこのような同じことをしている、いや、してきた。「なぜか」を突き詰めたい。バーゼルの流派の源流は底知れないし、茶の湯の稽古から、「正確に所作を身につける」に努めていると新しいことを知ることができる。同じ社中のおばちゃん達と一緒にその深さを感じることができる。それがたのしみ。

家元直筆の飾り扇子

やはりありました(今度は熊本?)。なんと素晴らしい、比べるとほとんど同じ様に書かれている。宗匠が直筆で「千里同風」と扇に揮毫して、近しい人に配られたということは証明された。お軸に表装するもよし、そのまま飾ってもよし、扇は平安の貴族から上位の者が、親しい下位の者に下賜する時の贈答品としても用いられたらしいので、家元から近しい方へは自然。しかし、ふしぎ、紙が違う。料紙と奉書紙の扇表。当然、墨のノリが違う。いったい即中斎は一気に何本書いたのだろう?想像すると興味深い光景。筆跡からして、同時に書いている、別の時改めてではないであろう。
うちの床に飾るときは、二つ同時に出す。さてどのようにしようか、、、楽しみ。
茶の湯における扇子は、結界。武家はすべて帯刀を外し、扇子一本だけの丸腰で茶室に入る。「和」、即ち茶室で平和をつくることが重んじられた。個人の周囲に即席につくる結界としての作法はあるが、扇子立を茶席で正確に扱うことは習ったことはない。どのようにするのだろうか、、、扇子本来の記号的起源は古代中国の貴人が用いていた翳(さしば)。高貴な人物の身体を隠し神秘性を高めるための威儀具(いぎぐ)で、「隠す」と逆に貴人の存在を伝える「目印」ともなった。また、日本では江戸時代の正月に親しい相手に白扇を贈る習慣があったらしい。

改選期新任民生委員・児童委員研修 一日目

予想以上にかなり濃厚な内容であった。いろいろあるが、ぼくのここのところの身の回りの状態と照らし合わせてみて、ふと思ったのが、軽視氏であった。高齢者で障害がある。見かけは該当するが、実はそうではない。詳細はブログに。これらの事実は、わが小泉家の歴史にきちんと記録しておかなくてはならない事柄。社会福祉における守秘義務の情報には当たらない。あえていえば、今後に役立つ事例と考える。地主と弱者のように見えてけっして弱者ではない借地人とのやりとり。今日知った民生委員のよいところは全て「活動記録」に情報を分類し整理して簡潔にとどめることができることだ。

それにしても、駒澤大学の川上富雄先生のお話は的を得ていて、よかった。久しぶりに講義を受けた感じがしたw

Welfare commissioner

今日から民生委員です。新人です。地元の老人と障害のある方々そして子供のために一生懸命やります。母が3年前に脳梗塞になり今日までいろいろあり、近所の方々から推されてやることに決めました。残りの人生は、自分の狭義のタイポグラフィ教育の流派を追求、そしてこの任務を全うしたい所存です。

ちなみに、民生委員制度は、1917(大正6)年に岡山県で誕生した「済世顧問制度」を始まりとします。 様々な経緯があり、1946(昭和21)年、民生委員令の公布により名称が現在の「民生委員」に改められました。「常に住民の立場に立って相談に応じ、必要な援助を行い、社会福祉の増進に努める社会奉仕者であり(民生委員法第1条)、日本の市町村の区域に配置されている。民生委員法(昭和23年法律第198号)に規定。地方公務員法第3条第3項第2号に規定する非常勤の委員であり、政令指定都市・中核市にあっては都道府県の特別職の地方公務員である。民生委員は児童委員を兼ねる」とあります。重い任務です。

寿ミ田川

江戸の楽陶。1819(文政2)年頃に佐原菊塢(きくう)が自邸内に窯を開いて、新梅屋敷(向島百花園)内に起こした。隅田川中州の土を採り、作品は新梅屋敷で土産物として売られ、都鳥の絵を描いた器や都鳥の香合が代表される。菊鳩の陶法は諸説あり、京都の名工尾形周平より受けたともいい、あるいは酒井抱一所伝の乾山伝書に倣ったとも、吉向治兵衛(きっこうじへえ)から学んだものともいい伝わる。菊鳩は早くから風雅をもって抱一・文晃・詩仏・千蔭・春海・蜀山らと交友があったため、隅田川焼は当時の名物としてもてはやされた。
震災前(明治から大正)に今戸で製作した隅田川焼の蓋置。この華奢な千切(中央がくびれた立鼓形)は今戸の7代白井半七(1923年関東大震災に被災し、今戸焼の窯は崩壊。碌々斎に引き立てられ、伊丹市に移窯した焼物師)作。素朴なへら彫りや押し印で都鳥が水面にいろいろな姿で描くことを得意としている。その通りに透かし鳥と彫り鳥があり、長楕円形に行書体の「寿ミ田川」と裏の立ち上がりに長方形に「半七」の二穎の陶印を捺している。
今戸焼を代表する陶家の初代半七は京都の土風炉師より技法を修得したとされ、貞享年間に土風炉や種々の茶器を制作したと伝えられる。2代白井半七は初代の技法を継承すると共に、享保年間に瓦器に施釉した楽焼風の軟陶を制作して「今戸焼」と呼ばれた。4代~5代頃より京都の伏見人形の影響を受けた「今戸人形」を制作し、浅草寺参詣などの土産物として天保年間に隆盛した。4代~6代は「芦斎」、7代は「楽半」と号し、7代までを「隅田川半七」「隅田川焼」「今戸焼」と呼ぶ。ここまでが江戸の半七。9代は8代の作風を受け継いで乾山写しなどで有名。小林一三の招きがあり宝塚市、そして三田市大原にと度々移窯し、共に料亭「吉兆」の創業者湯木貞一と親交が深く、作風が江戸今戸からかけ離れ、華やかな京焼の作風を取り入れ別物。