家元直筆の飾り扇子

やはりありました(今度は熊本?)。なんと素晴らしい、比べるとほとんど同じ様に書かれている。宗匠が直筆で「千里同風」と扇に揮毫して、近しい人に配られたということは証明された。お軸に表装するもよし、そのまま飾ってもよし、扇は平安の貴族から上位の者が、親しい下位の者に下賜する時の贈答品としても用いられたらしいので、家元から近しい方へは自然。しかし、ふしぎ、紙が違う。料紙と奉書紙の扇表。当然、墨のノリが違う。いったい即中斎は一気に何本書いたのだろう?想像すると興味深い光景。筆跡からして、同時に書いている、別の時改めてではないであろう。
うちの床に飾るときは、二つ同時に出す。さてどのようにしようか、、、楽しみ。
茶の湯における扇子は、結界。武家はすべて帯刀を外し、扇子一本だけの丸腰で茶室に入る。「和」、即ち茶室で平和をつくることが重んじられた。個人の周囲に即席につくる結界としての作法はあるが、扇子立を茶席で正確に扱うことは習ったことはない。どのようにするのだろうか、、、扇子本来の記号的起源は古代中国の貴人が用いていた翳(さしば)。高貴な人物の身体を隠し神秘性を高めるための威儀具(いぎぐ)で、「隠す」と逆に貴人の存在を伝える「目印」ともなった。また、日本では江戸時代の正月に親しい相手に白扇を贈る習慣があったらしい。

改選期新任民生委員・児童委員研修 一日目

予想以上にかなり濃厚な内容であった。いろいろあるが、ぼくのここのところの身の回りの状態と照らし合わせてみて、ふと思ったのが、軽視氏であった。高齢者で障害がある。見かけは該当するが、実はそうではない。詳細はブログに。これらの事実は、わが小泉家の歴史にきちんと記録しておかなくてはならない事柄。社会福祉における守秘義務の情報には当たらない。あえていえば、今後に役立つ事例と考える。地主と弱者のように見えてけっして弱者ではない借地人とのやりとり。今日知った民生委員のよいところは全て「活動記録」に情報を分類し整理して簡潔にとどめることができることだ。

それにしても、駒澤大学の川上富雄先生のお話は的を得ていて、よかった。久しぶりに講義を受けた感じがしたw

Welfare commissioner

今日から民生委員です。新人です。地元の老人と障害のある方々そして子供のために一生懸命やります。母が3年前に脳梗塞になり今日までいろいろあり、近所の方々から推されてやることに決めました。残りの人生は、自分の狭義のタイポグラフィ教育の流派を追求、そしてこの任務を全うしたい所存です。

ちなみに、民生委員制度は、1917(大正6)年に岡山県で誕生した「済世顧問制度」を始まりとします。 様々な経緯があり、1946(昭和21)年、民生委員令の公布により名称が現在の「民生委員」に改められました。「常に住民の立場に立って相談に応じ、必要な援助を行い、社会福祉の増進に努める社会奉仕者であり(民生委員法第1条)、日本の市町村の区域に配置されている。民生委員法(昭和23年法律第198号)に規定。地方公務員法第3条第3項第2号に規定する非常勤の委員であり、政令指定都市・中核市にあっては都道府県の特別職の地方公務員である。民生委員は児童委員を兼ねる」とあります。重い任務です。

寿ミ田川

江戸の楽陶。1819(文政2)年頃に佐原菊塢(きくう)が自邸内に窯を開いて、新梅屋敷(向島百花園)内に起こした。隅田川中州の土を採り、作品は新梅屋敷で土産物として売られ、都鳥の絵を描いた器や都鳥の香合が代表される。菊鳩の陶法は諸説あり、京都の名工尾形周平より受けたともいい、あるいは酒井抱一所伝の乾山伝書に倣ったとも、吉向治兵衛(きっこうじへえ)から学んだものともいい伝わる。菊鳩は早くから風雅をもって抱一・文晃・詩仏・千蔭・春海・蜀山らと交友があったため、隅田川焼は当時の名物としてもてはやされた。
震災前(明治から大正)に今戸で製作した隅田川焼の蓋置。この華奢な千切(中央がくびれた立鼓形)は今戸の7代白井半七(1923年関東大震災に被災し、今戸焼の窯は崩壊。碌々斎に引き立てられ、伊丹市に移窯した焼物師)作。素朴なへら彫りや押し印で都鳥が水面にいろいろな姿で描くことを得意としている。その通りに透かし鳥と彫り鳥があり、長楕円形に行書体の「寿ミ田川」と裏の立ち上がりに長方形に「半七」の二穎の陶印を捺している。
今戸焼を代表する陶家の初代半七は京都の土風炉師より技法を修得したとされ、貞享年間に土風炉や種々の茶器を制作したと伝えられる。2代白井半七は初代の技法を継承すると共に、享保年間に瓦器に施釉した楽焼風の軟陶を制作して「今戸焼」と呼ばれた。4代~5代頃より京都の伏見人形の影響を受けた「今戸人形」を制作し、浅草寺参詣などの土産物として天保年間に隆盛した。4代~6代は「芦斎」、7代は「楽半」と号し、7代までを「隅田川半七」「隅田川焼」「今戸焼」と呼ぶ。ここまでが江戸の半七。9代は8代の作風を受け継いで乾山写しなどで有名。小林一三の招きがあり宝塚市、そして三田市大原にと度々移窯し、共に料亭「吉兆」の創業者湯木貞一と親交が深く、作風が江戸今戸からかけ離れ、華やかな京焼の作風を取り入れ別物。

頂き物の自作茶杓

すごい。試作の茶杓がざっと二十本以上。ほとんどが珍しい木材の無節、、、よりどりみどりぼくは二つ頂いた。

  • 紫竹にて、二つ節(うちの茶杓では初)。
    長さ:19.8cm
    「松風」と銘をつけた。二箇所あることからシューシューと釜音が聴こえる。
  • 桜木にて、表の節の部分に幅をもたせて木肌を象嵌のようにしてある(ちょうど小降りの棗の直径にピタリと合う。乗せると白い部分が際立って美しい)。
    長さ:18.8cm
    「雪卯櫻」と銘をつけた。
    今日の稽古の茶壷口覆が花兎金襴(うさぎ)だったので。白と茶色のコントラストをうさぎに見立て。

いずれも藤掛宗豊作。早速、自主稽古で使用してみることにする。

軽視転居記念日

今日で隣が去って、ちょうど一年になる。ここは全く違う世界になった。
この一年、全く仕事ができなかった。大学生の頃からデザインの仕事をやってきて、初めてだ。12キロも痩せた。とてもきつい一年だった。立ち退いた夫婦がうちの土地に残した問題は、まだ余波が続いている。害はあっても利はない二人の人間であった。
とにかく、臭い、汚い、危ない、が全くない!さっぱりと綺麗になった。goole_mapでもこのように(過去の履歴には怨念の家屋が)↓

それにしても、ネズミ屋敷が消えたので、本当にいなくなった!ありがたい。

令和4年10月号 同門

pp.14, 15からの抜粋

お茶の味:古田織部⇄浅野幸長

一、うす茶はいかにもそそう(粗相=利休好み)に、

武者小路(有隣斎)
作意のないさらりとしたおどろくくらい手ばやく点てる
茶の気が失せぬ工夫


雲がすぐ消えるように脚が速い=雲脚茶(うんぎゃくちゃ)
泡を一面にたてない
粗相の茶の趣

一、こい茶の時は、柄杓に湯一はいよし、すくなきは悪く候、

宗旦の濃茶はゆるかった。
右手で茶を練り、左手は茶碗に添えなかった

織部から濃くなった。湯を注ぐことを一度で済ませた
茶の量と湯の量は決まっているので(計りやすい)