「コロナ前」「コロナ後」

ここのところ感染者が極端に減っている。こう言える日がきたのか。そうなることを願う。
[ 戦前には、両親をはじめ大人たちが過去のを語る時、「震災前」「震災後」という言葉を口にした。東京に住んでいる者たちは、大正12年9月1日の関東大震災を時間の大きな節目にしていた。それが私たちの世代になると、大東亜戦争と称された戦争が敗戦によって終結した昭和20年8月15日がそれに相当し、「戦前」「戦後」という言葉を使う。…] 吉村昭『東京の下町』p.220

おかえりモネ

とうとう最終回が終わってしまいました(ロス百音)。当初、母と見出した時はこのような気に留めるドラマになるとは、正直思っていませんでした。震災にあった人で同種の心に傷を負った者でなければ、理解できないかもしれない部分が多く含まれていることに驚いています。それにしても、よくこのように毎日何かしら引っかかるように朝ドラに仕立て上げたものと絶賛したいです。数年前に三陸の若い海女さんのドラマもありましたが、同じように東北の被災をテーマにしていたのに比較にならないほどの出来だと思います(話題だけで、あまりにくだらないので見ていませんでしたが)。
実際ぼくの場合は、この主人公モネとは逆のローケーションなので、また違った複雑な内面の部分があると思いますが、とても興味深いです。
1.
住人として被災しているが、他の人と違って、偶然その時にその場にいなかった。=同じ被災者でも完全に線引きされます。後で、駆けつけたが、明らかに周囲の人とは違う(差別を受けました)。
2.
ぼくの場合は、その時以降、上司からパワハラを受け続けます。そのような中、当時の「市民大学の責任者」でうちの大学の代表でした。市役所の(災害後なので廃案にするつもりでいた)担当者と市内にある他の二大学の担当者と尽力して、なんとか続けることができました。「何か被災者のために現地(ぼくも住人の一人と思っていましたが、そうではない)でできないか」を探していた毎日。
3.
最終的には、退いて同じように故郷に戻ろうと決心します。ぼくの場合はモネとは逆に東京に。創設に参加した大学を後に。しかし裏切り者扱いを受ける。
4.
そして、本題:教師と現場の話。ぼくは地震と同時に教室で教えていたわけではないので、家族と比較はしませんでしたがしかし、被災地での教員は実にきつい。正直逃げ出したくなる。被災後じわじわと、違った意味で現れてくる恐ろしさ。誰にも話せない。

今となっては、大学で教えていたことは遠い昔のことで、今の自分の生活と切り離しているつもりでいたが、そうではないとまた再び再確認し、いろいろと気づかされた。あの経験がその後の人生でいろいろな意味でよかったのだと信じるしかない。放送されていた毎回、忘れかけていた懐かしい細かい心の動きを感じることができて、とても有意義な半年でした。「おかえりモネ」に多謝。それと気象に関わるという職業の不確定さも相まって興味深かった。俳優も全ての方がとても良かった。ぼくが朝ドラでこのように感じたのは本当に初めて。

大槻如電宛

高田忠周書簡と肉筆の書が手に入った。ヤフオクで偶然見かけて、うちのアーカイブに。ちょっと興味深いのは、この手紙はうちの近所から近所に送ったものだ。実におもしろい!このような消息が残っているとは。
封筒の切手が剥がされているので、正確な年が不明なのが残念。竹山が大正14年から昭和5年ごろまで東京府日暮里町字谷中本175番地に居を構えていたことは奥付などで知っていたが、この印は!確実だ。それも文彦の兄の如電ともこのような交流があったとは。この辺一帯は文字天国だったのだと。
なお、『五體千字文』奎文堂、1880年刊。有名な『五體字類』西東書房、1916年刊が後に大ベストセラーとなる。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/853475
http://seitoshobo.jp/gotaijirui.html

且坐(さざ)

江戸時代中期、町民の茶道人口が増加、現在のように茶道の厳しさが失せ、華美な茶道を求める者が増え、遊芸とする風潮が起こる。茶道における精神・技術を7つの稽古法でみがき、禅における「七事隋身(しちじみにしたがう)」の精神を基に当時の大徳寺の大龍宗丈、天然宗左(如心斎)の参禅の師である無学宗衍の助力があり、また実弟の竺叟宗室と一燈宗室や川上不白ら高弟と相談して禅の精神に基づく厳しい修練を目的とした「七事式」を如心斎の没年までに完成されたとされている。

無学宗衍の七事式の偈頌:
花月は「互換機鋒看子細」
且座は「是法住法位」*
廻り炭は「端的底看」
廻り花は「色即是空 凝思量即背」
茶カブキは「千古千今截断舌頭始可知真味」
一二三は「修証即不無染汚不得」
員茶は「老倒疎傭無事日 閑眠高臥對青山」

昨日の「このほうは ほういにじゅうす」*の稽古、「且座之式」を一回行うことを「一座(いちざ)」といい、茶事の内容を集約したもので、客3人と亭主(東)、半東の5人で行う。臨済宗の宗祖臨済義玄の語録を集録した臨済禄の「且座喫茶」、趙州の従諗(じゅうしん)の且座喫茶法からとも言われ、七事式中で唯一名称が禅語から引用されている。それぞれの役割、法則が前もって決められており、一度定まると位置や役目が変わることはない。最初に折据を回して役目を決め、どの役目も出来なくてはいけません。日々の稽古の大切さを改めて感じます。

始めに、半東が花を運び、正客が花をいけます。
次に、次客が炭手前をおこない炭をつぎます。**
続いて、三客が香をたき(香元)、正客から順に香の香りを嗜みます。
東(とう=亭主)は、濃茶を点てます。東以外の皆でいただきます。拝見。
終わりに、半東が東に薄茶を点てます。
しまいが終わると、東と半東は一度席をでて再び席にはいり、総礼をします。
東と半東が席をでて、正客、次客、三客の順に席をでます。

以上、稽古中は自分と他者との関係で「機敏に動く」が重要です。尚、茶カブキは各服では不可能ですが、且座は半東がかなり大変ですが可能です。

武島羽衣 秋草

いろいろに なく秋の夜の 虫の音を 色にいたせる 野べの八千草

「春のうららの隅田川…」、瀧廉太郎の歌曲「花」の作詞者の秋の詩。いろいろな逸話があって、華やかな人だが、筆はわりと好み。一行軸で幅がなんと16cm、細長い。とてもモダン。ちょっと教育者の軸とは思えない。

扇面画題

抱一筆「扇面雑画」

1 白梅 
2 桜 
3 桃 
4 柳 
5 早蕨 
6 蕨と蒲公英 
7 菜の花に蝶 
8 桜草 
9 藤 
10 鉄線 
11 水草に水黽 
12 沢瀉 
13 河骨と太蘭 
14 布袋葵 
15 枇杷 
16 蘭 
17 酸漿 
18 露草 
19 撫子 
20 山帰来 
21 芒と嫁菜 
22 萩 
23 烏瓜 
24 柿 
25 吹寄 
26 雪中藪柑子 
27 若松と藪柑子 
28 譲葉 
29 水仙 
30 墨竹 

31 瓜に飛蝗 
32 生姜 
33 茄子に蟋蟀 
34 結び椎茸 
35 豆と藁苞 
36 大根に河豚 
37 瓜草に雲雀 
38 鷭 
39 稲穂に雀 
40 枯蓮に白鷺 
41 蝶と猫 
42 鹿 
43 目高 
44 蝸牛 

45 藁屋根に夕顔 
46 浜松 
47 蓬莱山 
48 秋景山水 
49 田園風景 
50 雨中山水 
51 破墨山水 
52 社頭風景   

53 五万米と水引 
54 鶯笛と若菜 
55 盆栽 
56 稗蒔 
57 玩具 
58 五徳と羽根箒 
59 籠に雪紅葉 
60 布袋

其一筆「十二ヶ月図扇」

1月 若松福寿草 
2月 彼岸桜 
3月 曲水 
4月 難波薔薇 
5月 鍾馗 
6月 凌霄顆
7月 花扇 
8月 月宮殿 
9月 菊慈童 
10月 桜花帰り咲 
11月 雪中鴉 
12月 追儺式

残念、いずれにも黄蜀葵はない。