元節の茶杓(切留近くに節がある下がり節、留節、止節)。覚々斎筒。兼中斎箱。
東山時代、武野紹鴎のもとで茶の湯を変革させた茶杓師、南都(奈良)窓栖と羽淵宗印(彦五郎)。
唐物を原型とする:
「真」長茶杓、象牙・無節の竹(利休形に真塗り)
「行」桑、元節の竹*
「草」桑以外の木製、中節の竹**
*珠光形(珠徳形)が単調であるところから、武野紹鴎は竹茶杓の特色である節を最下部に残すことを試みた。
**室町時代の茶杓は「茶杓師」の手になるものがほとんどであった。珠光の門人であった深見珠徳が節無しの長茶杓を創作し「珠徳形」の誕生。一会限りの使い捨てとして扱われ、多くは残っていない。しかし室町後期には、客などに贈るときのは「おくり筒」のものが登場。また筒に入れて保存するようになる。その後「草」の茶杓が現れる。利休は紹鴎が試みた節の景色をいっそう強調して、竹の性質を生かし、節を茶杓の中央に移した。現在のほとんどが茶杓の真中に竹の節がくる中節となり、茶杓の定型となった。 以後、常則とし節の個性を出して作られ今日に至る。 宗旦の頃に共筒、自筆銘が多くなる。
というわけで、この茶杓には銘はない。
侘茶の盛行により、茶会の道具の取合わせが必要な茶碗、そして茶器と単純で最も重要な働きをする茶杓。それを作った茶人の個性が茶杓に端的にあらわれ、削った茶人の心と点前をする人の心が同体になったとき、またその茶人の心を十分に理解できたとき、初めて茶杓は両器のひとつとなる。そして、茶杓の作が完全に茶人へと移り茶杓師の影は薄くなり、やがて茶人の陰で「下削り」を行うようになった。というのも、もし技術的に茶杓を削ることができる名職人がいたとしても、そこから生まれたというだけでは「茶杓の価値」は高くない。また職人自ら「銘」を付けて「筒書」や「箱書」をし、茶会で使うことはあまり例がない。一方「掛物の軸先」や「竹の花入」を作るのと同等な技術であっても、「茶杓」はその道具として前者のように完成度や熟練度だけで価値を図るものではなく、「茶人の技量、人格、(大徳寺禅僧に代表される)禅者としての悟りの深さ」などを披露した価値の基準として表現されるものである。まして、茶杓の下削りの職人の作の茶杓をそのまま使用することはあまり評価されない現状であって、一般に評価されるものは「家元の仕上げ」と「その銘」がつく茶杓である。その上で家元が「自作」と記すことがそれに繋がる(100%作でなくても)。とても珍しい価値観と言える(共同作業として?)。