結界

とは、Barrierではない。
(存在はあるが、できるだけ空を感じるものを探している)
●●寺の古木の、
竹の、
石の、
とても重要。
そして扇子で(必要とされるとき、いつでも)。

茶カフキ之記 無着軒ニ於(1981)

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執筆は兼中斎、箱書きもしているということは、おそらく皆中者の方*に、表装してお渡ししたのでしょう(通常は紙を筒状にして、ただ天の端をペコッとするだけ?)。
– 笑子* 全
– やゑ
– かツ子
– 㐂代子
– 弘子 一
全てが女性。なんとすごい、豪華な茶会だったのでしょう(亭主は不明)。如心斎が制定した茶カブキ(闘茶のひとつ)は利休忌2月28日に行われるのが慣例なので、その頃出す茶掛けですが、ぼくは客との話の向きで、これを掲げようと思っています。茶カブキの本来の深い意味(ある種の戒)を今一度考えることなど、再認識したいものです。
皆中者がいない時は、このように外に出ない記録なので、とても目出度い貴重な軸だと思います。どうして手放してしまったのだろうか、謎。やはり即中斎書付のがあったら見てみたいけど。客個人の思い入れがあるから、きっと巷には出ないと思います。
ところで、最初の記録は『利休忌茶カフキ之控』、その頃は記録を渡さなかったようで:
不審菴ニ於(1744)亭主は多田宗菊、試筆は中村宗哲
– 如心斎
– 堀内仙鶴(初代)
– 淡斎(小西彦右衛門) 全
– 宗雪(川上不白) 一
– 長入(七代樂吉左衛門)
全てが男性。この面面、想像するだけで興奮する。やはり5人。ぼくのと書付の感じがとても似ている。
難解な消息より、ぼくは好きです。

Tom Sachs: TEA CEREMONY

https://www.operacity.jp/ag/exh220/index_e.php
https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/19691
今、日曜美術館で放映されてた。興味深い人だけど、全てゴミだな。
感想:正座していたので、安倍信三よりは理解度が上のよう。

父子ふたり合筆の茶掛

不仙斎添書 兼中斎若書、「長生庵 吉彦書之 平常心是道」
後にご自身で箱書されて、これを世に出していることのすごさ、加えて表装の状態も傷みですごいのだけど、そこが何かを言わんとしていて自然でよい。ぼくに合っている侘。
実は、長年、墨蹟花押ふたり(高僧と宗匠)の茶掛が気になっていたのだけど、そういうものは印刷物でしか見たことなく、実際にはなかなかお目にかかれない。一方、風炉先屏風など絵の余白に書き添えた画賛はよく見かけるけど、うちの茶室には相応しくない(書家の表具や画家の作品は絶対にありえない)。
「びょうじょうしんこれどう」
意味は「ふだんの心が悟りである」ということ。
無門関第十九則「平常是道」本則:
南泉、因みに趙州問う、如何なるか是れ道。
泉云く、平常心是れ道。
州云く、環って趣向すべきや否や。
泉云く、向かわんと擬すれば即ち乖く。
州云く、擬せずんば争でか是れ道なるを知らん。
泉云く、道は知にも属せず、知は是れ妄覚、不知は是れ無記、若し真に不擬の道に達せば、猶大虚の廓然として洞豁なるが如し、豈に強いて是非す可けんや。
州云く、言下に頓悟す。
唐の南泉禅師とその弟子趙州禅師の問答で、南泉禅師が「平常心」といい、趙州がこれを「道」と会得し、「日常の用心」と悟った。この公案を瑩山禅師の師である義介禅師が説き示されると、瑩山禅師は「日常あるがままの心が仏道そのものである」と、たちまち心が開け、「我れ会せり」と思わず叫ばれたそうです。
若くして、この言葉を選ばれたとは、なんと素晴らしい方なのか。茶を点てるたび心せねば。いつの歳頃の書なのだろうか?(おそらく旧制中学1930年代前半) それにしても勢いがすごい書です。積極的にふだんからこれを掛けよう。理想的な茶掛!

金林寺

ツボツボがない即中緞子の袋を着せたのは、誰なのだろう?
この人のおいしい濃茶を想像してしまう。
未だに茶入(焼物)は気に入ったものに出会えない。それにしても溜にはうっとり。

山是山水是水 即中斎筆

誠に残念。やはり描かれていたんだ。
いい文字だ。やはり、各々同じでないのか、、、見つけたのに、早い者勝ちの買い物で、先週、負けた。ほんとうに昔から弱い、こういう勝負に勝ったためしがない。しかし驚いた。世の中には欲しい人がいるんだ、、、
ぼくは、今とてもこの正法眼蔵の言葉に合っている身の立場にいるので、とてもほしい。茶の湯に関係する物品は、ひとつしかない(デザインとは違う世界)。「出会いだ!」と道具屋さんは言う。
さて、この見つけた茶掛けの難は、共箱でないこと。即中斎の箱書きは、軸の書より美しいと言ってよい。その箱がない。それから表装がイマイチ。写真で見ているので確かではないが、なんとなくあまい(何か理由があるのか)。ここなのかもしれない。一本あるということは、きっとまだよいのが世の中にあるのかもしれない。今回はその提示なのかもしれない。きっとよい出会いがあるに違いない。
花とこのようなものたち囲まれて、客に茶を点てるしあわせ。しかし、ここのところ客が多かったし、仕事以外のことで、ちょっと疲れた。

大西浄中極(1955)

また、とてもよいものをみつけた。理想的なかたち、感動。
京名越6代浄味(–1759)造 唐銅鶴首花入 共箱
とうとう江戸時代の道具、、、とても味がある。
直線と曲線がすごい!みごとな物質感、大きさ。金属面が最高。
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