宗鑑書「初祖菩薩達磨大師」

家康の遺品「駿府御分物」として尾張家に伝わった一休宗純墨蹟「初祖菩提達磨大師」(徳川美術館蔵)はとても有名。禅宗名号「初祖号」とも呼ばれ、粗い竹筆を用いた八字一行書。室町時代を代表する書。この墨跡は当時の茶室の床には(横物が多かったためか?)長かったという逸話があり、氏郷、三斎両氏が同席で、芝山が利休に「床にかかるように」と願うが利休は同意せず、珠光の元表具には手をつけることはできないと、それ以来一行長物が流行したと伝わる(江岑咄之覚)。
うちのは生没年未詳の山崎宗鑑のもの。(もう少し調べてみると)室町後期、近江源氏佐々木氏の出で、晩年は山城国(京都府)山崎(この地名を姓のようにいう)に庵を結び閑居、自ら竹を切り油筒を売っていた隠者であった。たぶんその頃の書。一休宗純に参禅した後、諸国を遍歴行脚し、連歌師であったらしい。近世俳諧の先駆をなす「犬筑波集」の撰者。「庵の入り口に人を追い返すべく、客を上中下に分ける札を掲げていたとか」興味深い。
大綱達磨図、白隠達磨図や宗匠画讃など有名なものはいろいろあるけど、いずれの肖像や姿はある種の記号なのだけど、後に想像されたものは明らか。やっぱり茶掛は達磨の仏画より名号が相応しい。

令和5年11月号 同門

興味深い茶道具の諸々、江岑宗左による「草人木」という茶書から

一、昔(利休以前)の名目に云  一茶壷 二釜 三茶入 四文字(掛物のこと)
一、中比(利休期)は  一茶入 二掛物 三釜 四茶壷
一、当代(江岑期)  一茶入 二掛物 三花入 四釜  壺の沙汰なし

つまり、茶の湯にとって掛物は利休の時代に四番目から二番目に重要な道具とされ、江岑の時代にもその思想は受け継がれて、今日に至っていると考えてよい。茶入と壺は人と茶の世界の宇宙観(茶室を含めた空間認識)。その次にお軸が重要なことがわかる。すごいことです。現代最ももてはやされている茶碗はいずれの時代も入っていない。当然のこと。

字休は 一掛物 二茶入 三釜 四茶杓  茶碗の沙汰なし

茶杓は壺の中に、人的介入を示す道具。清らかな一撃を示す。五行「木」「火」「土」「金」「水」が揃うことが肝要。

大綱の余白に

偶然、大綱・龍雲軒 和歌合筆「山寺夏」に出会った。歌をよくし、書画にすぐれた大綱宗彦(大徳寺435世 1772–)は吸江斎とよくまじわった。歌の書風はあまりにも有名。右寄りに記され、左は紙白の空間、好む人は多い。そこに予想通り一筆入れた僧がいた。牧宗宗寿(大徳寺471世 1820–)、惺斎の参禅の師。茶に親しんだ。三友棚が有名で、明治初年、山内の松・竹材を提供して作られた。碌々斎は松材の天板地板の塗りを好んだ。三千家の融和の象徴として、本歌は四つ作られ、各家と大徳寺に収まる。三千家とも炉にのみ使用する。

さて、この軸装は明朝表装で生ぶ表具、意外だが、実は大綱には合っている。外題(軸木の近く)には、

紫野大徳寺大綱極御詠歌安國少林禅逸師
が給ふ今嘉永四年辛亥(1851)事
田府青表々住國作
とあり、いつの書か特定できる。
同時に書いたのだとしたら、79歳と31歳か。感慨深い。

三木町棚と江岑棚

江岑棚という小棚を先生からいただいた。今日の稽古はこれで(思い出しながら)!由緒は:

箱書には、
表千家四代江岑好み「三木町棚(山中善右ヱ門所持の頃?)」、
家元に伝来している江岑好みの本歌は、若党の手造りと言い伝えられているが、寄木造りで、引出しはガタガタで、四隅の足は全て異なる形をしているなど素人細工である。

  • 天板と地板は、杉木地。
  • 引出は、樅(モミ)木地。ツマミは、竹。
  • 柱は、檜(ヒノキ)木地。
    一説には、殿様から頂いた菓子の折箱を拝領したものを、天板と中棚の間に樅材で出来た引出しに見立てて、江岑が若党に命じて棚に作らせたと伝わる。
    その頃、紀州徳川家に茶頭として出仕した江岑は、和歌山城下の三木町に屋敷を賜り、毎年期間を決めて京都と和歌山との往還が行われていた。おそらく屋敷滞在中にあった樅・檜・杉の残材を寄せ木にした(遊び心が)この棚を好んだとも。

その江岑伝来の棚を表千家六代覚々斎が正確な寸法で桐木地に作り変えて、実用化。
箱書には、
表千家六代覚々斎好み「江岑棚」、

  • 総桐木地。ツマミは、桑。
本歌

且座か中置きか

久しぶりに稽古に。先生は迷ったらしいが、今日の稽古は、当然中置きではない。且座をアレンジした稽古となった。

この酷暑の中、中置きの稽古はありえない。いくら先取りといっても「同門」九月号に(平成24年のしつらえが)載っているが、この酷暑は本誌が発行する時点で予想できたはず(気の利いた補足の添え言葉もない)。誤解を招く掲載である。茶事も稽古も、ここのところ気候が変化している中、本来の道具組みを見失っている。そのためにそのような対策を門人に伝えるのがこの機関紙ではないだろうか。おそらく10月になって、気温が落ち着いた頃の茶を嗜む人たちへの配慮であろう。杓子定規に情報を載せるものではない。先生とこの話題をしてて、本当に最近のお宝主義「うわべ」の振る舞いは困ると。反省してほしい。且座を考案した天才如心斎はどう考えるであろうか。今日は天然忌。

最古の且座の記録か:備忘録

正客=楊甫(住山)
次客=宗参(土橋)
末客=紹甫(湊)
 且座有候
東=宗左(吸江斎)
半東=宗与(久田)

一、掛物 天然筆円相
 前ニ獅子香炉 溜ヌリ䑓
一、釜 浄元累座
 道安形風炉
一、花入 啐啄斎尺八 銘「ソリ」
桑三重棚
一、水指 金廣口
一、茶入 新兵衛作 三柏
一、茶碗 天然造 銘「いとめ」
一、茶杓 拙作 筒書付致
 コホシ エフコ
 薄茶器 ツホツホ棗
 香合 紹鴎形白粉解
 炭取 油竹

嘉永(1850)年旧暦8月13日昼前後 残月亭於いて

葭戸(よしど)

葦戸とも。夏障子、建具の一つ。京簾(すだれ)や簾戸(すど)、貴人の御簾(みす)とは異なり、似ているが別世界。京式・大阪式があり、模様の揃え方が違う。うちのは散節ではなく、模様合わせ(ragged style)。新調すると一枚なんと20万するが、中古を見つけた。とにかくうちの寸法が京間とは違うので一苦労=規格寸法、間中(幅965×高さ1757mm)、一番基本となる押え竹の下に模様や飾りの合い糸が入らない原型で、侘びに徹したい。
地杉枠 赤口葭模様合わせ簾入り
葭の太さ:4,5–5mm (大阪式は6–7mmで太め)
押え竹:錆竹
腰板入り:杉、透かしのような飾りなし

このようなことを考えていると、松村さんを思い出す。ご存命だったらいろいろお聞きしたいことがたくさん。それと、京の老舗材木屋さんの建具だったそうなので、松山さんの故郷の琵琶湖の葦で作られているのかもしれない。佇まいでなんとなく故人たちを偲んで。

家原清蔵宛

江戸後期の茶人、光悦「障子」や利休「雀香合」所持で有名。江岑好木地丸香合(了々斎在判)はうちでは珍しく由緒がはっきりしている。同時に所有者宛の書付(色紙)とが当時の遠忌のままの姿で残っている。
二代 家原政熈 凞?享保10年–安永5年[1725–1776]、元文4年15歳で初習学、大坂が初勤務地。
ちょっと、備忘録。三井の再統合「寛政一致」に関わる家系。18世紀半ば頃から同族の借財増加や同族間の不和で三井内部に不協和音広がるようになっていた。①呉服部門を北・新町・家原・長井の四家②両替部門を伊皿子・室町・南・小石川の四家③松坂店は小野田・松坂・永坂町の三家、安永3(1774)年三井十一家で事業を分割となり、「安永の持分」と呼ぶ分裂状態に突入し、寛政9(1797)年ようやく再統合にいたる。「店頭での心構え」には、部屋への茶道具の持込禁止がある。小道具屋の招き入れについては初回見習い時の示合に見られる箇条で、文化5年8月の五代政由の示合に見えるが、後年の示合には見られない。享和年間から文政年間にかけて同族の借財が問題になっている時期であり、習学中の散財を注意したものであろう。このように、三井同族らは初回習学時の示合は勤務中の心得があり、注意事項・禁止事項などを盛り込んだものであった。いずれも文化人としては高い素養を持った者への、絵画・和歌・茶道などにも造詣があったが戒めともいえる。

吸江斎在判 傳来捻貫写 一重口水指

七十才永樂了全造、即中斎書付。隅炉だから、客の視線は常に目の前の水指。とても重要な道具でうちの茶室の顔といえる。和物土物、日本で造られた陶磁器製の水指のこと。『利休百会記』にあるように、瀬戸水指が圧倒的に多く、今まで勝手な解釈で稽古用の黄瀬戸一本でやってきたが、とうとう侘茶の趣のある水指を手に入れた。

捻貫(ねじぬき)は、胴に荒目の螺旋状の轆轤目の凹凸をつけた焼物。 表面がネジのような形をしていることから捻貫手と呼ばれるようになった。 本来瀬戸茶入の手分けの一で、四代藤四郎より後の瀬戸後窯(のちがま)と伝えられる茶入に見られるもので、捻貫水指は利休所持のものがあり、江岑のときに紀州徳川家に献上され、内箱蓋裏に「祢ちぬき」、中箱蓋裏に如心斎が「祢ちぬき 御水指」、外箱蓋裏に了々斎が「利休所持 瀬戸祢ちぬき 左(花押)」と書付のあるものが有名。
一重口水指としてみると、信楽の銘「柴庵(しばのいおり)」利休所持(東京国立博物館蔵 重文)に雰囲気が似ている。古瀬戸のようだが違う。一重口(ひとえぐち)とは、口造が内側に折れ込んだり外側へ反り返ったりせずに真直ぐ、胴は寸胴形で、底は板起こしで平底の水指。

西村宗禅(初代)から西村宗巌(9代)までは西村姓、10代了全(1770–1841年)西村善五郎。天明の大火により全焼した西村家を立て直して工房を整備した。「永樂」の陶印を初めて用いる。千家出入りになったのも了全の代から。樂了入(9代樂吉左衛門)と親交があり、同じ町内に移り住むほどの影響を受ける。家代々の土風炉作りのほか中国の釉薬を研究して茶陶を製作した。12代和全の代から西村でなく永樂姓を名乗り、さかのぼって了全と保全も永樂の名で呼ばれている。現在は十職。

頂き物の自作茶杓 その2

また頂いた。
• 欅にて、無節だが、節裏が少々曲がっている。とてもシンプルでモダンな感じ。
長さ:19.1cm
「巌」と銘をつけた。
• 白竹。節細い一文字。直腰。 櫂先折撓。露丸形。切止に焦げ跡が品良くある。
長さ:18.1cm
「お水取り」と銘をつけた。

今週の稽古早春にあわせて。いずれも藤掛宗豊作。また、自主稽古で使用してみることにする。