初代大西定林(江戸) 13代浄長極
胴径7寸4分半・口径3寸5分、小振り、格注草地紋が好み。釜肌に傷アリ、、、
元伯宗旦の漢詩横物
二重箱堀内不仙斎箱書、古筆了延・了意極札。この時代の掛物は圧倒的に消息で、書の多くは有名なあの四角い黒印に惹かれついつい、それら世の中に出回っている元伯は贋作ですが、それにしても惚れ惚れする文字と空間だ。最も尊敬する茶人の魂が染み込んだ書。心が清め洗われる。
「一人傳虚萬人傳實 漫々(いちにんきょをつたうればばんにんじつをつたう まんまんたり)」と書いてある。一人が誤ったことを伝えると、世間の人々がそれを本当だと思い次から次へ果てしなく満ちあふれて広めてしまうこと。そういった惧れを指摘する語。全く今のネット中心の社会の人々に当てはまる喝。特に情報の送り手は心すべき重要なこと。つまり万人に向けてなのだが、特にうちの分野で例えれば「一人の有名なクリエーターが本筋と異なったことあるいはそれっぽい作品を発表すると、ネット上でその関係する信者がその情報源のことをやたらと広め、収拾がつかなくどころかその後にもし真実を伝えてもかき消されてしまう」といったことであろうか。
《五灯会元.卷11.临济玄禅师法嗣》:「僧问:『多子塔前,共谈何事?』师曰:『一人传虚,万人传实』
【出處】:漢·王符《潛夫論·賢難》:“一人傳虛,萬人傳實。”
【例子】:問:“如何是東禪家風?”師曰:“一人傳虛,萬人傳實。”(宋·釋道原《景德傳燈錄》卷21)
五灯会元【ごとうえげん】20巻、目録2巻
大慧下4世、大川普済の下にいた慧明首座の編。淳祐12年(1252)に成り、翌年に刊行。中国南宋の禅僧普済編とも慧明編とも伝える禅宗通史。「五灯」は宋代成立の禅宗史書である景徳伝灯録、天聖広灯録、建中靖国続灯録、宗門聯灯会要、嘉泰普灯録の五つを改編して一書とした総称で(灯は不滅の法灯を意味し)、それらを整理集成したので「会元」という。
工芸幅
千利休筆「茶道具注文黒印の文」
昭和40年代に盛んに作られた復刻版茶掛のひとつ。発行は講談社、大塚工芸社が制作、当時限定販売されたものでよくできている。以前から興味があった消息(単純な目的、内容、伝達)。昭和46年当時、富山の瀬川宗親氏所蔵の複製:
注文
一 棗 一ケ
一 小板 一ケ
一 袱紗物 一ケ
一 茶巾 五ケ
一 茶巾洗(茶巾盥) 一ケ
一 面桶(曲建水) 一ケ
一 柄杓 一ケ 以上
(右の)道具ども、(近江)大津の我ら宿へ届けられ候て給うべく候。
以上、七色にて候。正月二十六日 利休(オケラ判ではなく署名)【おそらく天正14年の消息/5年後殁】
と黒印「易」(当時三通しかこの印文は発見されていなかったもよう)
(詳細不明の茶友)道哥まいる
名物道具を伴わない急の侘茶事にふさわしいお軸。複製なので気軽にいつでも誰でも知っている利休をかけられる(利休と書いてあるのが誰でも読める)!持ち出す時期は正月の後と合わせるのか、やはり利休忌がいいのか? いや、これは自由。普段使いの機能として茶一服のお招きに使えるので重宝。
第一印象は、茶巾五枚がとてもいい。大久保先生を思い出す「小泉くん、茶巾はとにかく白、清潔清潔」。
しかし、なぜこの7点なのか、この順なのか。謎が残る究極の茶掛。
乾山写
箱書には「乾山写」とか「仁清写」がよくあります。とにかく数多ありますが、似ても似つかないというか、完全に解釈を間違えているものがあります。時には、確かに真作で存在する絵柄というかモチーフをやりすぎてビックリというもの見受けられます。最近、琳派と江戸琳派、調べているととても興味深い作品を見つけることができます。そこに解釈が生まれるのです。
もともと、茶の湯に乾山と仁清は深い関係がありますが、いつの間にか茶の湯の有名な作家たちが写しとして使用し、道具を売るためにとなんとなく合体してしまって、同じ仲間になっています。とても問題です。どんなに有名でも乾山や仁清は茶道の家元にはなれません。いや、彼らは時のものづくりであって、家元になる気はありませんでした。日本の芸術であって、流儀の開拓者です。絵柄の山も川も、野の草花も、美を追求した手段なのです。
「うつし」と「まね」は違います。かえって「写」と箱書などでうたっていなくても、使用する茶人が、写しや好みと解釈して、特定の客のもてなしでそう思ったものを使用し、その時の道具の由緒でそのように紹介する方が正しいと思います。という理由から箱書の「写」は信じてよいのか分からないといってよい。なので、ぼくはすすんで手元におきません。
且坐(さざ)
江戸時代中期、町民の茶道人口が増加、現在のように茶道の厳しさが失せ、華美な茶道を求める者が増え、遊芸とする風潮が起こる。茶道における精神・技術を7つの稽古法でみがき、禅における「七事隋身(しちじみにしたがう)」の精神を基に当時の大徳寺の大龍宗丈、天然宗左(如心斎)の参禅の師である無学宗衍の助力があり、また実弟の竺叟宗室と一燈宗室や川上不白ら高弟と相談して禅の精神に基づく厳しい修練を目的とした「七事式」を如心斎の没年までに完成されたとされている。
無学宗衍の七事式の偈頌:
花月は「互換機鋒看子細」
且座は「是法住法位」*
廻り炭は「端的底看」
廻り花は「色即是空 凝思量即背」
茶カブキは「千古千今截断舌頭始可知真味」
一二三は「修証即不無染汚不得」
員茶は「老倒疎傭無事日 閑眠高臥對青山」
昨日の「このほうは ほういにじゅうす」*の稽古、「且座之式」を一回行うことを「一座(いちざ)」といい、茶事の内容を集約したもので、客3人と亭主(東)、半東の5人で行う。臨済宗の宗祖臨済義玄の語録を集録した臨済禄の「且座喫茶」、趙州の従諗(じゅうしん)の且座喫茶法からとも言われ、七事式中で唯一名称が禅語から引用されている。それぞれの役割、法則が前もって決められており、一度定まると位置や役目が変わることはない。最初に折据を回して役目を決め、どの役目も出来なくてはいけません。日々の稽古の大切さを改めて感じます。
始めに、半東が花を運び、正客が花をいけます。
次に、次客が炭手前をおこない炭をつぎます。**
続いて、三客が香をたき(香元)、正客から順に香の香りを嗜みます。
東(とう=亭主)は、濃茶を点てます。東以外の皆でいただきます。拝見。
終わりに、半東が東に薄茶を点てます。
しまいが終わると、東と半東は一度席をでて再び席にはいり、総礼をします。
東と半東が席をでて、正客、次客、三客の順に席をでます。
以上、稽古中は自分と他者との関係で「機敏に動く」が重要です。尚、茶カブキは各服では不可能ですが、且座は半東がかなり大変ですが可能です。
東都名家寄合書畫
今日の自主稽古は如心斎の道具尽し、しかし見立てのひとつで床にはこの軸を掛ける。如心斎の考案した七事式「花寄せ」に因んで風炉の季節(立夏から冬至には草花の種類の多い時期なので)、花所望ということで同席する方々が順次花入を選んでできるだけ多く茶室に取出して生けるという式法があるが、現在コロナ変異株の異常な流行のため外からの複数の客入室禁止にしたので、当分の間はこのようなことはできず、こういった現れになるだろう。
9月13日如心斎の命日「天然忌」は供茶と即中斎の円相、14日からは熊澤泰禅の円相と決めている。
茶室では語らぬが、国民に対して何も重要なことをやらない自由民主党の政治家たちには呆れる。許されることではない。言葉にならないぐらい罪深い。
銘「雨請」
なんと、この銘あえてこの昨今の気象に答えているとしか言えない。
随流斎作、共筒。如心斎の箱添、蓋裏書き。即中斎が自作の基本とした茶杓と似ている。彼らの喝が一斉に聞こえる。
飛瀑巌前肌生粟
ひばくがんのまえにはだえにあわをしょうず
瀧の墨画。夏の茶室にはピッタリの漢詩。大概、直下三千丈と書かれている。両脇にはアブストラクトな厳しい筆運び。しかし、この絵はなんか弱々し~い瀧口(ふつうは強烈)。また岩が三つ。そこがとても気に入った!見たことのない緩ーい瀑布自画賛。そして完璧な白地の紙はすべて水(先日の穴のあいた其一の滝図が気になるw)。滝壺は無限にその下に。
甲子1924年、視篆開堂54歳の伝衣若書か。とてもとても好みの拙い水と墨。名の上に記されている通りに、今年の三伏日、初伏7月11日に掲げる予定。なお中伏7月21日、末伏8月10日と続く(計三回)。しかし今日、6月21日の夏至にもならないのに昨日から暑いのでかけてしまった。なんと目に涼しい。
三つの茶銘
濃茶 御代昔(みよむかし)
30g 3,240円(税込)
芳翠園
御茶所老松園二代目として茶匠杉本憲太郎が明治20年伊勢松阪に創業。
濃茶 御代の昔(みよのむかし)
遠州茶道宗家 紅心宗慶宗匠(1923–2011)御好
40g 2,780円(税込)
柳桜園茶舗
臼屋の伊藤勝治が明治8年伊勢桑名に開業。
濃茶 御代の昔(みよのむかし)
宗徧流不審庵 幽々斎山田長光宗匠(1966– )命名
30g 2,484円(税込)
ブランド『西条園』
元は合資会社あいや茶店製? 茶と藍製造の杉田商店を興した初代杉田愛次郎が明治21年愛知西尾に創業。
これらは全く違うお茶。
お茶銘といえば、有名な「の白(薄茶)」と「の昔(濃茶)」の区別は本来そういうものではなかった。元は小堀遠州が古来から続く白製法による「白茶」の最高級品を「初昔」と名付け、生葉を灰汁に浸してから茹でる青製法による「青茶」の最高級品を「後昔」と名付けたことに由来するらしい。それと、このように宗匠が茶銘をつけ出した起りは何だったのだろうか。これら御代(御世)とつくからには、伊勢神宮に関係していたのであろうか。【なお、その他「御代の昔」という名の抹茶が数点存在するが、どういうお茶かは不明】
羽淵宗印(はねぶちそういん)作
元節の茶杓(切留近くに節がある下がり節、留節、止節)。覚々斎筒。兼中斎箱。
東山時代、武野紹鴎のもとで茶の湯を変革させた茶杓師、南都(奈良)窓栖と羽淵宗印(彦五郎)。
唐物を原型とする:
「真」長茶杓、象牙・無節の竹(利休形に真塗り)
「行」桑、元節の竹*
「草」桑以外の木製、中節の竹**
*珠光形(珠徳形)が単調であるところから、武野紹鴎は竹茶杓の特色である節を最下部に残すことを試みた。
**室町時代の茶杓は「茶杓師」の手になるものがほとんどであった。珠光の門人であった深見珠徳が節無しの長茶杓を創作し「珠徳形」の誕生。一会限りの使い捨てとして扱われ、多くは残っていない。しかし室町後期には、客などに贈るときのは「おくり筒」のものが登場。また筒に入れて保存するようになる。その後「草」の茶杓が現れる。利休は紹鴎が試みた節の景色をいっそう強調して、竹の性質を生かし、節を茶杓の中央に移した。現在のほとんどが茶杓の真中に竹の節がくる中節となり、茶杓の定型となった。 以後、常則とし節の個性を出して作られ今日に至る。 宗旦の頃に共筒、自筆銘が多くなる。
というわけで、この茶杓には銘はない。
侘茶の盛行により、茶会の道具の取合わせが必要な茶碗、そして茶器と単純で最も重要な働きをする茶杓。それを作った茶人の個性が茶杓に端的にあらわれ、削った茶人の心と点前をする人の心が同体になったとき、またその茶人の心を十分に理解できたとき、初めて茶杓は両器のひとつとなる。そして、茶杓の作が完全に茶人へと移り茶杓師の影は薄くなり、やがて茶人の陰で「下削り」を行うようになった。というのも、もし技術的に茶杓を削ることができる名職人がいたとしても、そこから生まれたというだけでは「茶杓の価値」は高くない。また職人自ら「銘」を付けて「筒書」や「箱書」をし、茶会で使うことはあまり例がない。一方「掛物の軸先」や「竹の花入」を作るのと同等な技術であっても、「茶杓」はその道具として前者のように完成度や熟練度だけで価値を図るものではなく、「茶人の技量、人格、(大徳寺禅僧に代表される)禅者としての悟りの深さ」などを披露した価値の基準として表現されるものである。まして、茶杓の下削りの職人の作の茶杓をそのまま使用することはあまり評価されない現状であって、一般に評価されるものは「家元の仕上げ」と「その銘」がつく茶杓である。その上で家元が「自作」と記すことがそれに繋がる(100%作でなくても)。とても珍しい価値観と言える(共同作業として?)。