音無川文庫/StudioMap試作

とうとうできあがってきた。大槻文彦作根岸及近傍図の現存する道をGoogle上で追って正確に現地確認確認し作図している。時間と手間がかかる作業。右半分と左半分の縮率が若干違う、そして方位傾きが微妙に違うのには深い理由があるにない。
versionはまだゼロックスコピーなので0。印刷物になると1に。

父元治の生徒手帳

当時の東京府立工藝學校のもので、遺品の中に大事に入っていた。担任の染谷駒太郎はぼくの祖父。つまり母のお父さんが父の先生でずっと父の青年期の成長を見守っていたことになる。とても稀な先生と生徒であったと想像する。詳しい話をぼくは聞いたことはない。もちろん母は知らない。謎だ。
来年は、この辺りが先祖の所有していた土地のカタチに近くなる。ぼくが生まれた頃に区画整理があり、ここ上根岸と背中合わせの日暮里町3丁目=東日暮里5丁目が、近代的な都市の状況になっていくきっかけとなった(他の日暮里地区は異なる)。そして今年、都立竹台高校の新校舎建築工事の部分が完成した。全く違った風景となった。父が見たら何と言うだろう。

徹道一香居士

1952年の今日、亡くなった。いつもは当日にお墓参りするのですが、今日は内装工事なので、昨日母と堀切の正王寺へ。その後、良之さんともお話できた。帰路で駅前の魚屋で秋刀魚を二匹買って、塩焼きにして食べた。やっと日常に戻ってきた。

今日うちの戦後は完全に終わった

祖父鎌二郎、叔母高子、父元治の悲願のひとつが実りました。うちのプライベートな日韓交渉は今日をもって事実関係が終決。とにかくガマンにガマン。中地先生とともに一昨年9月から今日まで長きにわたり、やりきった。とてもうれしい。平和に清らかに、うちの裏を音無川の流れていた頃に、美しい江戸の農村に、多くのご先祖がいた頃に、少しでも戻って欲しい。ぼくの心からの願い。

そして次の段階に。

徹道一香居士

以前、祖父に関する記載をすべて下げしましたが。今回はこっそりと。
新しい教室の入り口に1925年のアールデコ展に出品したフランスの賞状を掲げましたので、その記録として。額装は上野桜木町の浅尾拂雲堂の空人氏にお頼みして、ちょっと調整をしていただきました。そして今日いつものように平居さんに設置を。

「雪」のように白い…

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父元治が大切にしていた桑原巨守先生のオリジナルのブロンズ像。今日、女子美大学美術館の馬場章館長、藤倉久美子教授、図書美術館グループの川上勇氏がお見えになり、先生のデッサンといっしょに「雪 (1976)」を寄贈することが決まりました。そして「花束 (1980)」、9月24日に大東京信用組合の新日暮里支店に寄贈しました。
ともに日動画廊にて、先生がご存命中に直接買いもとめたもの。2013年4月に、渋川市美術館に母と伺いましたが、こちらのものは現在まだ保存されている石膏から最近鋳造されたらしい。
最近の芸術は桑原先生の作品のような、素直なものが少ないように感じる。同じことを、仙台の佐藤忠良美術館にても、いろいろと思い出す。

上野万年町

面屋酒店に朝行きました。とってもなつかしい。妹が生まれた時に、ぼくはここにあずけられて、別の子供のようになって帰ってきたのです。「ほっぺがふっくら真っ赤、ひび割れて、ねこにたくさんひっかかれて、、、」。汽車汽車しゅぽっぽが得意だったらしい。あずかってくださった、おばあちゃんは、ご健在。感動!実家の近所の遠い親戚です。あまりにも、ご無沙汰してしまって。
http://www.maroon.dti.ne.jp/~satton/taitou-imamukasi/mannentyo.html