AERA 1948号

p.5のとてもいい啓蒙書の話。Emmanuel Lévinasの定義:マルクシスト(marxist)「マルクスの思想をマルクスの用語を使って語るひと」とマルクシアン(marxian)「マルクスの思想を自分の言葉で語るひと」。

p.7の岸田の歴史に残る三つの便乗商法=1.安全保障体制の大逆転 2.原子力政策の大逆転 3.安倍氏の国葬

それにしても、近頃の表紙写真の酷すぎ。世の中は続きすぎのイケメンたちばかりで成り立っているわけではないし、だいいち写真の色が下品。(1949号でやっと女性になった。しかし依然同じ路線)

残ったモノ、通り過ぎたモノ

…実は、やっと実家周辺のリノベーションが終わり、ようやく客人にお見せできるような施設に近づいてきました。活版やスイス・タイポグラフィはもちろん、この冊子にあるようなテーマ(うちのコレクションに関係あるもののみ)そしてこの近所の歴史的文化を感じられる場所になる予定です。アーカイブとは、なんでもかんでもの資料ではない。少なくても厳選して残ったモノ。
ここは図書館ではないし、個人のコレクターの足跡でもないので、読んで特に感じなかった本はその後すぐに手元から離れたし。おおおおにして、残っていたものは後日学生のためにとか、この本はいつか何かの役に立つ、、、といったような漠然としたモノ(著書の一般的な参考書も含め)。レコードも同じく。購入し直後に聞いて、二度と聞いていないものばかり。そのようなモノは今までの断捨離で全て消えた。通り過ぎたものはぼくにとって本質ではない(Reduction)。それを明らかにしておけば、実際のものが(例え複製や大量に作られたものであっても)生きてくる。
将来、ぼくと同じ思考のラインにのった人がいたら(つまり流派の手前)、はぐれないようにしてあげることができれば、人がここの情報を足掛かりに多様化できる。そのように構築したい。なかなか難しいが。

「子ども」「障がい」

以下の漢字表記は好ましくない。
「児[どう]」
幼児の姿から作られた漢字。その年ごろが対象ではない子の場合には不適切な文字。
「[じ]童」
幼な子という意味。成り立ちは針で目の上を刺して(失明させ?)、重い棒で背負って。奴隷という意味。
「[こ]供」
成り立ちからそなえもののイメージが強い。差別的な表現ではないと主張しているが、膝をついて手で差し上げるというイメージ。
「[しょう]害」
漢字にすると、言葉の意味を的確に表していない。ネガティブなイメージが残るので漢字表記を勧めない。

余談:「障がい」のある「(子どもではないにしても大人ではない)学生」を「いじめ(しかも人前で自慢)」をした輩はどのような理由があろうとも、絶対にあってはならない許してはいけない事実、、、民生委員のDVDで研修中。

peter-lukas graf_backstage

この人のことを全く知らなかった!船田さんがこのオリジナルの本を貸してくださった、、、なかなか内容も興味深い。
それと、この本のすごいのは、スイス人の先生の口伝で、日本人の手記がオリジナル。あと、ドイツ語版しかこの世にない。日本語は横組❣️
かつてバーゼル音楽院で教えていたのですね。追って細かいことを載せますが、とりあえず、一つ:
「音楽家になろうとしている人にとっては、、、自分自身を表現するという、人間の素晴らしい可能性に喜びを持ち続けなさい!そして、もしもうまく音楽を職業とすることができたなら、そのことを常に特別な恩恵に浴していると心得なさい!」

令和4年10月号 同門

pp.14, 15からの抜粋

お茶の味:古田織部⇄浅野幸長

一、うす茶はいかにもそそう(粗相=利休好み)に、

武者小路(有隣斎)
作意のないさらりとしたおどろくくらい手ばやく点てる
茶の気が失せぬ工夫


雲がすぐ消えるように脚が速い=雲脚茶(うんぎゃくちゃ)
泡を一面にたてない
粗相の茶の趣

一、こい茶の時は、柄杓に湯一はいよし、すくなきは悪く候、

宗旦の濃茶はゆるかった。
右手で茶を練り、左手は茶碗に添えなかった

織部から濃くなった。湯を注ぐことを一度で済ませた
茶の量と湯の量は決まっているので(計りやすい)

飯尾の和歌

とうとう書の源流。これが本当だったら、このお軸の経緯は実に興味深い。雨華庵にあったのか? その後、所持していたのは一笑庵旧蔵の証が木箱の表題紙にあるように、その茶室の主人か?:
高田太郎庵(1683–1763)で尾張名古屋の茶人。宗和流の茶を学び、表千家六代千宗左の門人として表流の茶の湯を広めた。この宗匠が焼いた茶碗「鈍太郎*」をくじで引きで当て太郎庵*と号した(おもしろい話)。今でも「太郎庵椿」が地元熱田神宮で有名。
元々、この表題紙にある「一笑庵」は古田織部作の茶室を譲り受けて高田太郎庵が自邸に構え、晩年には希少な古筆の名物切を数多く蒐集して、すぐれた審美眼の持ち主でもあった。この人の所蔵であったのであろうか?(箱は相当古いが、一笑庵の貼紙はそこまでは古くはなさそう、但しその反対側に古い外題が)
その後を辿ると、興味深いのは、徳川美術館の岡谷コレクション――岡谷家は、江戸時代から続く名古屋有数の商家。1669年、初代岡谷總助宗治が名古屋城下に創業した打刃物商「笹屋」を発祥とし、九代岡谷惣助(1851–1927)は、愛知銀行や岡谷鋼機株式会社の設立者。この代までは茶人ではないのか、、、1923年、益田鈍翁*を迎えて開かれた敬和会は、十代岡谷惣助(1887–1965)を席主に茶室「一笑庵」で行われている。この近代の数寄者たちの賞玩の一端に触れることができる点から、なぜ岡谷コレクションではなかったのか? どの代で外れたのか? 贋作か? ここまで話を作るか? 興味深い。

飯尾常房(いいのお つねふさ/1422–1485)室町時代の武将、書家。阿波の守護細川成之に仕え、将軍足利義政の右筆(ゆうひつ)を務める。仏教に通じ、和歌を尭孝(ぎょうこう)に学ぶ。また尊円流(そんえんりゅう=尊円法親王が興した書流)の書を修め、和様の書風のひとつ飯尾流を創始した。このような経緯から、雨華庵に所蔵されていたのだろうか、火災前に持ち出されて残ったのか? あるいはその前か?
[wikiより:]尊円流にはとくに傑出した能書家はいない(一休宗純が茶道用の掛物として当流を使用しているのが、僅かに目立つのみ)、しかし、別名御家流(おいえりゅう)**とも呼ばれ、武家の公式文書は多く御家流草書で書かれたため普及した。寺子屋などで学ぶ教科書でも御家流が用いられていたことから庶民に普及し、明治時代に活字文化が普及するまでは日本の標準書体であった。そのため、江戸時代以前の古文書を読むには、御家流のくずし字を学ぶことが必須となっている。

短冊の和歌よみ
「刈り残す 真菰乱れて 吹きぬめ(け)る
御津の御牧の 秋の初風 常房」かなのとても美しい書。

黒楽茶碗 銘「鈍太郎*」表千家6代覚々斎原叟宗左(1678–1730)が、享保6年(1721)に江岑宗左五十年忌に作った一碗で、益田鈍翁*は明治40年(1907)に入手した。翌年品川御殿山の本邸(碧雲台)に茶室「太郎庵*」を建て、還暦自祝の茶会を披き、この茶碗銘に因んで「鈍翁」と号するようになったいう茶碗。

句は是のみ覚てをれり。【遊芸何も不為】和歌を蓮阿に学び、御家流の書をよくして**弟子数多あり。養子心水子に家を譲り別宅し、剃髪して蘇平と改む〈「鶯邨君」が酒井抱一〉

抱一の写し

久しぶりに、落札の最後まで萎えなかった。とても楽しく相当長い時間一対一が続いた。最後の相手は76,682回も落札している強者。こちらはオフクロと「この秋草(ミズヒキとヨメナ)の絵いいね〜」とか言いながら、ゆる〜〜〜く対戦。それにしてもこの人はおもしろい、残り2分22秒になると必ず上げてくる。「きっとまたくるよ〜〜」、、、このやり方で7万回も落としたのか!へ〜ヘビーコレクター。笑
ところで、このお軸はインターネットオークションの大半、いわゆる贋作の一つ。つまり落款がある当該作家の真筆の作品ではない。しかし大切なことはこの絵は、おじいちゃんやおやじの時代に通じる「写し」を堂々と証明している。その作品を模写することを通じてコツコツと技能を学ぶ。昔の美術家や職人は同じことをしていたというのだ。なのでコレは証としてどうしても手元に。普通は、(ほとんどの)一見して分かりきっている贋作や抱一の絵を弟子やその後の琳派が書いていないものは買わないでしょう!しかし、そこが実に興味深い。四条派の西山完瑛が(1889年に)描いたとわかっているからです。

播州明石藩に仕えた絵師が酒井抱一の写しをしたという事実がこの絵から知ることができるのです。抱一の写しでこれほど説明を絵に丁寧に書き込んで自らの落款まであるものは滅多にない。しかも明治時代の大阪を代表する須磨対水(完瑛の父芳園から学んでいる)の箱極書き(庚申1920年夏)と上巻絹に外題もということは、そこまで入念に。普通の写しではなくそれなりの理由が、もしかして本歌は吉兆に? ぜひ探し出して比べてみたい。
その他、絵には「上六寸七歩」「左七歩」「右一寸四歩」とアキの寸法が小さく書き込まれている。そして肝心の抱一の落款まで見事に写している。鶯村の印影が間伸びしているのは愛嬌。
とにかく、明治時代に大阪で江戸琳派の模写が堂々とされていたのだ。これは傑作だ。

試筆新玉之圖(1801)

呉春の火焔とはいえない宝珠。とてもおとなしい火炎、しかしそこにパワーが潜んでいる。辛酉正月だから49歳か。
この形は、燃え盛る炎あるいは一適の水の雫を表している。宇宙全体の象徴。座禅の手の形も如意宝珠といわれている。本来は仏教の摩尼車の「マニ」は如意宝珠(サンスクリット語: cintāmaṇi)の略で、単独では「宝珠」の意味。仏語の口業【く‐ごふ】つまり言語表現、人間のあらゆる行為三業(三昧耶形が元?)のひとつを表していると考えられる。三つ巴形式が普通で、下に2個横に並び、その上に1個乗って一つの火炎に包まれた三弁宝珠が原型。形が整っているので、仏塔の相輪や仏堂の最上部に。また燈籠の笠の上に一つ置かれるなど、象徴化した擬宝珠ではないと思うが(茶の湯では正月床飾り「ギボウシ」の縁起物は見たことない)、黄瀬戸の宝珠形香合が思い浮かぶ。掛物は僧侶によるものが多いのでそこでよいのを狙っていたが、どれも美しくない過剰な塒のような炎の表現が多い。炎を纏っているのは神社でもよく見かけるが、平安時代かららしい。それにしても、さすが四条派の祖の試筆、なんと軽快な10の筆数を、精度の高い筆扱いでまとめ上げている。