茶カフキノ記 看雲亭ニ於(己酉1969)

執筆は即中斎、兼中斎のと同じように自筆で箱書きをしている。やはり書きものに花押はない(奉書紙は違う)。思ったより早く願いが叶って家元書付のがあった。しかし、予想と大きく異なった。これもおそらく皆中者の正客*に、お渡ししたのでしょう。春芳堂表具、仕舞い込んでなく、かなり掛けていた痕跡。宗匠に表装していただいた時は、ご本人は相当盛り上がったのであろうに、どうして手放してしまったのだろうか(たとえその後の人が茶をしなくても、家宝だと思うのですが)。
– 㐂三子* 全
– 蓮子
– 文子 全
– まさゑ 全
– 悦子 一
やはり全てが女性。それになんとすごい三人も当てている。この超緊張の茶会で、さぞかし即中斎は素晴らしい笑みを見せたことでしょう(亭主は不明、この場合どなたが茶を点てたのだろうか)。家元の茶カブキは、歴史上に残るのように、今でも内密に全てが謂れがある男性だけの世界でやるのかと想像していた(美化していた)。
また、これは4月21日(利休忌ではない命日)に行われている。この年(回忌年ではないのだが)は茶カブキがとても多い(軸になっているものを他に2幅も見かけている=両方とも兼中斎によるもの/悦子氏は4月12日の蘆庵にもお詰めで)。

流派の結束を説明するときに掲げようと思っている。よく見かける「七事式」の掛物(有名なのは不白)があるが、それは説明に適さない。茶カブキの発祥や復興や本来の深い意味を現在に置き換えて今一度考え直し伝えること。このコロナ禍で以前のような茶カブキは実施が難しくなっていること(内内でやるしかない)。とても重要なポイントだと思う。
それにしてもこのお軸は、昭和の旺盛だった茶道、いや戦後の茶道の存続。今日の茶道を即淡砲で切り開いてモダンの流派を形成した証。
この茶室は謎。「看雲亭」というのはかつて大徳寺に存在していた有名な奇観。どういうことなのだろう。どこなのであろうか。南禅寺(鹿苑寺?)の茶室? 東京の稽古場? 何箇所か同じ名の茶室が存在するようだ。王維の終南別業「行到水窮處行(ゆいてはいたるみずのきわまるところ)、坐看雲起時(ざしてはみるくものおこるとき)」で惺斎の好みに由来するのであろう。

左右逢源

辛巳(1821年)、了々斎筆、百五十遠諱追薦と記してある。江岑好木地丸香合の写しを配りものにした際の色紙。逢源斎の語源だが、道を体得した者があらゆる事物の本質を見取り、自在に対処すること。左右〔そ‐う(もと‐こ?)〕というのは、この場合「かたわらにあること」という意味にも取れるのではないだろうか。稲垣休叟(いながき きゅうそう)書付、江戸後期の茶人。号は竹浪庵・黙々斎。啐啄斎に師事。「茶道の世界では従前より(生誕何年祝より)没後の年忌を大切にし、歴代家元の年忌にあたってはその遺徳を偲んで追善の法要や茶会を行ってまいりました。」(同門2022年1月606号より、元伯が花から鶯へ替えた記事も載っていたけれどw)の規範のもととなるお軸と思う。了々斎の江岑への思いが紙面にとても現れている。今年10月27日はちょうど江岑三百五十年忌。

《离娄章句下》章句八编辑 孟子曰:“君子深造之以道,欲其自得之也。自得之,则居之安;居之安,则资之深;资之深,则取之左右逢其原。

天佑庵

天佑庵茶室は東京府荏原郡目黒町字上目黒(津村順天堂創業者の)津村重舎氏邸にあり、邸はいわゆる目黒丘の一部にして西南に傾斜し、住宅本屋は高部に本席は庭園を隔てて、その低部にあり、もと名古屋の茶家牧野作兵衛翁が天明年間千宗左の邸にありし不審庵を模造したりしを移して、これに八畳客室八畳その次室及四畳半控ノ間等を配して一棟とし邸内に建設したるものとす。
牧野翁が利休好み不審庵を模するや、茶室はもちろん露地一切の現形を実写して、樹木の高低配置に及び、寸分違うことなきを期したりという。大正5(1916)年高橋義雄=箒庵(ほうあん)たまたま名古屋市に滞在中、牧野翁五世の孫作兵衛氏この茶室を譲渡するの意ありと聞き、これを前水戸藩主徳川圀順侯(明公)にすすめてその東京小梅邸(本所区向島小梅町)に移し、その地の旧名にちなみて嬉森庵と命じその扁額を松方海東公にこいしが、その後徳川邸移転の議あるにて及びてこれを上野公園内日本美術協会に移さんとしたるも、当時公園内に木造家屋の建設を許されざりしに依り、終に津村邸移築せしものなりという。しかるに工全く竣りてかの癸亥の大震災あり、小梅邸も美術協会も焼亡したるに、この席の目黒山に移れるばかりに、無事残存するを得たるは、全く天佑(天のたすけ)のしからしむる所なりとて、当初よりこの席の肝煎役たりし高橋氏の狂喜は、終に本籍を天佑庵と銘名するに至れるなりと、茶壇の一佳話として語り継ぐべきなり。
なお、京都なる不審庵は明治39(1906)年に火災にかかり、模造は決してすくなからずといえども、おそらく本籍の古きに及ぶもの非ざるべしという。昭和2(1927)年 川上邦基 記ス
 昭和33(1958)年に現在地である浅草寺伝法院内に移された。

滴(しずく)

優れた茶人は、柄杓の扱いが自然で上手である。武士で言えば刀と最も似ていると感じる。道具というものは究極そういうものなのか。昔の茶人の点前を見てみたい。基本となる二種の量をブレないで、お湯(あるいは水)を汲めて注げることが肝要。扱いや持ち手はどのような時もいくつかの同じかたちの繰り返し。

  • 一杯に汲む=
    茶碗を温める時:
    茶を掃いた茶碗に入れる時:
  • 半分に汲む=
    茶碗を濯ぐ時:
    お仕舞に茶筅を濯ぐ時:
    水指から釜に水を差す時:
    (この場合、合や茶碗の大きさなど適宜。量は未調整)

汲みたい量にする:
柄杓の合が釜のお湯の中にある時に、柄杓の合の傾きで量を決めてしまう。
そのままの傾きのまま柄杓を上げてきて、
柄杓の底が、水面から離れてから、柄杓の合を水平にして上げる*。

滴:
釜から茶碗まで柄杓を移動させている間に、お湯が落ちない様に細心の注意を払う。柄杓の合の底は、凹型になっているので、水面から出た後に合の底面に未だ残っているお湯は、直ぐには合から落ちない。しかし、いずれは必ず一滴は落ちると予測すべき。それがいつなのかを測る。合の底面で一箇所に集まってくるお湯をその汲んだ直後にその場で落とすか、柄杓の移動中畳に落ちる前に、茶碗など移動先の中にお湯を入れるようにするのかその場の判断があらかじめ必要である。
水中で傾けた柄杓のその角度をそのまま変えることなく、柄杓の合の底を水面から上げると、斜めなためお湯の切れが良いはずなので、お湯は残らないで落ちるはずだが、それが一呼吸の間に落ちない場合が困る(*この瞬間)。また合を水面から上げた後、お湯が切れるまでしばらく待つのは作為的でよくない(絶対に振ったり揺らしたりしてはいけない)。何度やっても水面から離れる時の表面張力では完全に露を切ることができない場合がある。

注ぐ:
茶碗にお湯を注ぎ入れる時、茶碗の右側にお湯が垂れて、茶碗をとると畳が濡れているのは恥ずかしい。その原因は、柄杓の底の部分に伝ったお湯が茶碗の右の縁から外に出て、畳に落ちている。
はじめに、お湯を合から茶碗のどこに落とすかを決めて集中して注ぐ。絶対に茶碗の中心にお湯を落とさないようにすること。
茶碗の直径と角度を見る=落とし始めに茶碗の(7,8時位の短針がくる)左側手前の縁に近い所に、落とし終わるまでその位置を動かさないように注ぐ。つまり、寸分の狂いとブレは禁物。

炭道具・灰道具の記号

兜巾頭の火箸
鳥頭、菊頭、桐実頭、渦頭、丁呂木頭、椎実頭、宝珠頭、瓢頭、大角豆頭から選んで火筋として使うのだが、どれも好みではない。ぼくのは烏天狗には付き物、頭襟(ときん)、山伏がかぶる小さな六角帽子の形。十二因縁(鳩摩羅什訳)、十二縁起・十二有支(玄奘訳)にちなんでおり、「支分は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死、これら無明暗黒の煩悩だが、悟りに達すれば空(emptiness)になり、不動明王の頭頂にある蓮華のように清浄である」という意味。現実の苦悩の根源を断つという仏教の基本的な考えのひとつ。

蓮の灰匙
利休型なのだが、匙部に蓮華文が板金の打ち出し仕上げになっている珍しいもの。古い仏具のよう。意味的には日常で用いられる陶製匙の散蓮華(ちりれんげ)と同じく、自然で本当に美しい蓮の花から散った花弁に見立てている。仏教で重要とされているのが、煩悩に穢されることのない清浄な仏の心をあらわす「白蓮華」と、仏の大悲(だいひ)から生じる救済の働きを意味する「紅蓮華」。泥に染まらず清らかで美しい蓮華は、仏典では清浄な姿を仏にも例える。また漢訳三本の妙法蓮華経は「白蓮華のように正しい教えを説く経」という意で経題に用いられている。蓮は7月中旬から8月中旬位にかけて開花し、近所の上野不忍池が名所というのも何かの縁である。

うちはこの二つの火道具によって、より一層清められる。

瓶懸

利休好みの手焙(てあぶり)というものがある。「鮟鱇(あんこう)」と思うが、どこに本歌があるのかわからない。黒くてとてもいい形をしている。何ともいえない佇まい。作は享保年間京都深草に住み、雲華などの土風炉で名を残した辻井播磨(遠州好みらしい、[千家は]永樂了全より90年近く前の方)。この頃に風炉の種類も増え、茶人の好みにより多種つくられたらしいので、形はアレンジしているようだ(うちのは冷泉家にあったよう?)。この中に炭を入れるとほんわかして、暖かい。ぼくは持病で血の巡りがとても悪いので、ここのところの寒さに手が悴んで(活字を拾うときにもイイ)、これ本来は、待合でお客様に使っていただくのだが、失敬して自身で毎日愛用(オヤジが昔うちにあった小型のをよく金玉火鉢と言っていた=下品な言葉だがw)。ということはいつも火箸扱いの稽古!
実はぼくの灰はいろいろまぜこぜで全然ダメなのですが、そう言えば、佐久間先生が「他人からの灰は信用できない。」とおっしゃっていた。それが少しわかってきた感じがする。

初釜会記

道具は昨年と同じ。
濃茶 寅昔 詰:一保堂茶舗
薄茶 龍華の昔 詰:陽光園 佐久間宗信好
菓子 常のもっちり黒糖饅頭
花入 唐銅鶴首 京名越6代浄味造 大西浄中極
花 和水仙

omicronで余計な外出をしなかったため。常に近い。

大福茶

2022年、あけましておめでとうございます。
昨年も、最後の郵便物が同門1月号、一点でした。今年も同じように始めます。
さて、大晦日から炉の火を絶やさず、また元日は夜咄のようにして、最後に自服を。

掛物 漢詩横物 元伯宗旦筆 不仙斎箱
茶杓 羽淵宗印作 覚々斎筒 兼中斎箱
茶碗 古高田焼 銘「寿須」
床 七官青磁鉢、石菖蒲
道具は一部昨年のを差し替えました。とにかくお気に入りの道具で、
菓子 羽二重団子 餡団子(こし餡)

練香

大切なときには、即中斎好み「雲井」松榮堂製に限っていますが、以前は大久保紫月好みの「黒方(くろぼう)」を頻繁に使っていました。これは六種(むくさ)の薫物のひとつでとても有名。沈香、丁子香、甲香、麝香、薫陸香、白檀などをまぜて作ったもので、幽玄をあらわすとされた。源氏物語 第三十二帖 梅枝 第一章 光る源氏の物語 薫物合せ、三.御方々の薫物「さらにいづれともなき中に、斎院の御黒方、さいへども、心にくくしづやかなる匂ひ、ことなり。侍従は、大臣の御は、すぐれてなまめかしうなつかしき香なりと定めたまふ。」の一説にあり。今日は先生の好みだった鳩居堂製ではなく、初めて山田松香木店製を入れてみた。なるほど香舗によって全然違う!言葉では表現できない。
有名な北宋の黄庭堅「香十徳」の
 感格鬼神
 清淨心身*
 能除汚穢
 能覺睡眠
 静中成友 
 塵裏偸閑
 多而不厭
 寡而為足
 久蔵不朽
 常用無障
今日はやはり*これでしょうか!

三音(さんおん)諸説

釜の蓋を切る音*
茶筅とおし(表裏)の口にあてる音
茶碗に茶杓をあてる音

=湯釜の蓋をずらして開ける音*
茶筅とおじ(武者小路)の音
=茶碗に茶を入れたあと茶碗の縁で茶杓を軽くはたく音

釜の蓋を閉める音
=茶筅の穂を茶碗の湯にとおす音
=茶杓で茶碗の縁を打つ音

釜の湯の沸きたつ音
湯水を柄杓で汲み入れる音
その残りを釜に返す音

釜の蓋を蓋置の上に置く音
茶碗を畳の上に置く音
水差の蓋を置く音

中潜を閉じる音
蹲踞の手水の音
躙口、襖を閉める音

草履をしまう音
茶室内の衣摺れの音
箸の落とす音

茶席では、無闇に音を立てないのが心得とされる。点前の重要な節目で、サインとして必ず音を立て、意味をもたせなければならないということになると、上記で該当しないものが出てくる。先日*これで話題になった。「表では結構音をさせるよね、裏ではたてない」というのです。そうなのか、ぼくは個人的に、わざわざ「ガラガラ」させ鳴らすのは好みではない。ほんの少し当たるか当たらないかの釜の金属音を聴くすれすれの音がよいと思う。