江岑消息(つけたり)

以前判明していた「茶をいただいたお礼に」それ以外の部分を読み下していただいた。
〈裏封〉奥方様  江岑宗左
先日御□存候。其後
便以物淋申上候。
我等近日江州へ
罷下申候。先日よき
時御茶被下千万
忝候。罷下付
今般用所多候。
何方御同行申上
指延申候。其内可
得貴意候。
一 此一箱宗見ゟ
貴札遂朝会
被申習候由申上候。
先日ハ多礼被下存候。
     以上
 十三日   宗左(花押)

要約:近日近江に行くこと、先日茶を頂きかたじけないこと、用事がたくさんあり、母 真巌宗見の箱のことなどをのべているようだが。まだ、詳細はわかっていない。

銀地竹中次

とうとう手に入れた原羊遊斎作。医師であり茶人(宗偏流時習軒派、それ以前に遠州流を学んでいたとされているが、石州流も学んでいたともいわれている)の神谷松見箱書。立上に花筏蒔絵(字休菴初蒔絵)、内朱。知られた江戸時代後期の江戸蒔絵師による茶器。長年探していたもの。その様なものはないと思っていたが、やはり存在していたのか。他流派の道具だが、ここ音無川の辺りで物語が展開する前の仕事のようである。凄い蒔絵。地ずり(盆付)ちりの近くに「羊」の銘が微かに毛彫されている(これは大概見落とす)。羊遊斎の有名なものは外観がド派手な印籠だが、この茶器は全く地味で、ちょっと見、蒔絵の凄さがわからない。そこがとても気に入っている。
羊遊斎の生涯については不明な点が多いが、文政13(1830)年に藩主松平頼恕からの制作を命じられ、藩主の御用品を手がけることになるので、確実にそれ以前の作と考えられる。おそらく1800年から1809年の間の作と断定できる。というのも、松見は1800年に78歳、1809年に87歳歿。47歳下の羊遊斎は31〜40歳で、抱一は39〜48歳。実に興味深い。いつどのようにそれぞれ接点を持ったのであろうか。となると、羊遊斎はやはり50代?に根岸に出入りしだすのか、、、当時、神田下駄新道に住んでいて、根岸の寮は抱一の雨華庵と庭続きであったといわれている。抱一は文化6(1809)年に下谷大塚に寓居を構え、「雨華庵」の額を掲げているらしいので、まさしく、乙川優三郎著『麗しき果実』の話につながってくる。逸話でもその頃は名士との交遊に忙しく、工房では自ら蒔絵することはほとんどなく、腕の良い工房の職人に仕事をさせていたらしい。おそらく、当時の関係する人たちの流派はこの周辺に近いはず。そして、この茶入はご本人の手による貴重な若作であろう。弘化2(1845)年12月24日に没し、現在巣鴨の講安寺墓地に、墓石には自ら創作した丸に羊字紋、諡号「巍岱院照月更山信士」。

備忘録:『陸安集(りくあんしゅう)』
京橋三十間堀に住んだ材木商の岡村宗伯に始まる宗偏流時習軒派の三代に当たる神谷松見が延享2(1745)年、23歳の頃に編纂したもので、序文は師匠の時習軒二代 岡村宗恕(そうじょ)が書いている。宗恕に入門したのが18歳の時とされ(流祖宗徧も同じように18歳で宗旦に入門)、『茶道便蒙鈔』をもとに師である岡村宗恕と山田家三代 宗円から過去の宗匠方の伝聞に、注訳を加えたもの。時習軒及び山田家においても明治期までこの『陸安集』の筆写をもって皆伝とする慣わしがあったという。宗偏流四代 漸学宗也は三代 江学宗円の実子で、神谷松見から教えを受けた宗也はその皆伝の暁に神谷松見から陸安斎の号を授かり、八丁堀に茶室を構え、広く千家の茶の湯を教えたことにより、その当時は「江戸千家」といえば宗偏流を指すまでになっていたようで、これは川上不白が登場するまで続くことになる。

令和6年9月号 同門

やっと涼しくなってきた。しかし、やることでいっぱいの毎日。

「随類応同(ずいるいおうどう)」
なんとすばらしい。
習熟度の違うお弟子さんそれぞれに寄り添いいろいろな角度から指導していくことが必要です。…稽古場の教えを熟考し、…
まさしく、茶道場。

最初で最後の、レビュー

Jean B. Levy、マイ・フレンド、ありがとう!!!
★★★★★
Design basic
2024年8月4日にアメリカ合衆国でレビュー済み
Amazonで購入
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販売終了のお知らせ

この度、私家版『Reduction. Ethics. Didactics.』の邦訳本が結果的に限定期間発売(11日まで)となりましたことをお知らせいたします。
市場では、すでに話題となっておりますが、原著の版権が昨年Matthias Hofmann Publisherからniggli Verlagに移りまして、新たな版権者と交渉を重ねてまいりましたが、現行の継続販売は不可能となりました。約半年間という短い期間でありましたが、ご購入いただきました方々に御礼を申し上げます。
ぼくとしては、原著刊行当時から、いろいろな意味で頭が本書のことばかりだったものですから、約4年、じっくりArminとともに歩んだ貴重な期間でした。

瀧上樵人図

まさしく天地人。樵人は河鍋暁斎、瀧は佐竹永湖の筆による合作である。よく見ると木の上に斧を翳した人がいる。なんとも不思議な飛瀑図。
作成年代は、明治4年から暁斎没年の明治22年の間かと思われる。ちょうどその頃、暁斎はうちの裏、永湖は本郷に住んでいたらしく。樵人の近くには暁斎の落款と「酒仲画鬼」の朱印が。おそらく、人とここの部分だけうちの裏で書かれたのであろう。どのようなやりとりであったのか、想像するだけで楽しい。ひょっとしたら木樵は庭師だった和三郎か?表情が豊かで、日暮里の隠者に通じるような一種の物語絵。それにしても、当時流行った鉄斎の滝のようなリアルすぎる絵は好みではない。描き込んでいるが、この絵のようにさっぱりとリダクションw

普通を生きる–ひとりの編集者として

松山由理子さんの三回忌が静岡で無事済みましたということで、信洋さんと鮎子さんがいらっしゃいました。昨日はとても初夏の気持ちの良い日で(とうとう今年一番の暑さとなり、あの琵琶湖に初めて訪れた日を思い出しました。あの日も暑かった)。
追悼集も仕上がって、内容がとても立派。ぼくは久しぶりに全体的な本一冊の仕上がりを想像する役を担いました。生前の由理子さんを想い出して、短期間でしたが無心になって取り組めました。全体を通して文字の大きさは二つだけ。本文書体はヒラギノM(ゴシックは使用しない)。フォーマットは編集を担った方の土俵上で。縦組だけ(たった一箇所だけ横組)。ごく普通に爽やかな空気のように。
そういえば、由理子さんとは、茶室で何度も和文の書籍本文について、縦組と横組のお話をしました。懐かしい、、、もうあのようにあっさりとお話をし合える方がいなくなってしまったのか、寂しい、ほんと寂しい。
口絵はあえて本文グリッドを外し、、、という、ちょっとぼくらしさを。表紙は誠信書房時代を思わせる銀一色、白に溶け込まないちょうどいいところで止める。絵は由理子さんが溺愛していた画家林田由起子さんの桔梗。構図がとてもいいんです。
静かにうまくまとまった。

夢中でデザインしていた頃の誠信書房の数々の本、彼女と一つ一つ違った思い出が残っている。/Studioでスケッチから出来上がりまでの展示をしたいなと感じた日でした。この夏、納屋から出してこようと思う。全て残っているはずだけど、どんな状態かは全く不明。

茶道アーティスト?

このような方が、茶道を壊していくのでしょうか。
深い歴史と茶人たちの積み重ねを、最も簡単に解釈されて、、、
「…私はお免状をいただいていないため、人に教えることは難しく、お茶道具も伝統的な茶室も準備ができません。…」当然です。ただ日々研鑽を重ねるだけです。プロジェクトやパフォーマンスではないのです。恐ろしい。
https://www.yomitime.com/who/252.html

直取引

本日から、条件が揃いましたので紀伊國屋外商部に小社発刊のPODを納品することになりました。こちらは特に大学の図書館ということでAmazonだけでなく小社の紙の本を入手できることになりました。進歩だと思います。とてもうれしい。
出版の革命と言われているこの紙の本は在庫を抱えないというSDGs中8番(働きがいも経済成長)と12番(つくる責任つかう責任)にあたる。倉庫代がかからない上、余計に印刷する必要がない。(取次業務経費と制作費の浪費分を安価にできる)なんとすばらしい。また、読者は「ポチる」ことでいつでもどこでもスマホで購入、自分のスマホに載せて情報を保存しておくこともできるという願ってもいない情報を手に入れることができるのだ。そういう情報を死ぬ直前まで発信していきたい。もちろんISBNは小社ので、全て国会図書館には紙の情報として永遠に存在することになる。

それにしても朝日新聞社。朝日ジャーナル・週刊朝日・アエラの個性がごちゃごちゃ。売れれば良いのでしょうか?「名物企画お引っ越し」はいいけどアエラの読者には必要ない情報、雑誌の個性がどんどん消えていく。そういう時代なのでしょうか、SNSじゃないんだから毅然としてほしい。だから紙の情報は売れなくなる、、、悪循環。AERA創刊から父が休まずとっていたが、母と合意でこの6月一杯で定期購読を解消しようと思う。表紙写真のセンスも酷いし。とても残念。